ゲーテの上機嫌さ

「ゲーテとの対話」には、エッカーマンがゲーテ邸を訪れるとき、ほとんどいつも「朗らかで、生き生きとしている」という記述がある。

エッカーマンの記録は文豪ゲーテの晩年の数年である。病気がちでもあっただろうし、老いらくの失恋で失意の日々もあった。なにより加齢とは頑固になることでもある。だがゲーテはそうならなかった。健康が優れないときも、気持ちが落ち込んでいるときも、反対者から攻撃を受けたときも、いつでも上機嫌で朗らかだったとエッカーマンは随想している。つねに「私をたいへん快く迎えて」くれて、芸術談義をした。

「画家の明るい精神を褒め称えた」
「皇太子はすこぶる上機嫌だった」
「にこにこと笑いながら詩篇を読み上げた」
「ミュンヘン大学の学長の演説をたいへん褒めた」

と、他人のこともずいぶんと褒めあげる。安楽椅子を使わない。立って口述筆記したとも伝えられている。頭を支える寄り掛かりを作ったとあるが、これはゲーテの死のちょうど一年前である。

「私の部屋にはソファは一つもないだろう。私はいつも木の椅子に座っている」(「ゲーテとの対話」中巻)

そもそも頑強な身体をもっていたのだろう。ところで下巻には、ゲーテがフランスの喜劇作家モリエールの作品を褒めるくだりがある。妄想に憑かれた患者の男が、自分の娘ルイゾンに向かって、「お前は若い男を匿っているだろう!」と問い詰める。普通の作者なら可愛いルイゾンにごくかんたんに事実を語らせるが、モリエールは問い詰めに対して答えを遅らせて、舞台に素晴らしい効果をもたらしているとゲーテは褒める。

「最初は可愛いルイゾンの父の質問がよくわからないという振りをさせる。次に、知っていても言いたくないと拒絶する。それで、鞭で脅かされ、死んだ振りをして倒れる。それから父親が絶望して騒ぎまくると、彼女は見せかけの失神か状態からいたずらっぽく元気に飛び上がって、結局、つぎつぎに一部始終を白状する」(「ゲーテとの対話」下巻)

喜劇ゆえに笑いのあるコントにしてしまう、さすがはモリエールなのだが、現実のわれわれはちがう。この父親のようにすぐに絶望し、わめいたり、失意になる。うろたえてうろうろしてしまう。

たとえばわれわれは、知人が癌を宣告されただけで落ち込む。我が人生まで考えてしまう。いわんや自分が癌を宣告されるとどうなるか。ある高名な外科医は、宣告にうろたえて放心した。そこで主治医は外科医に対して2度3度と日を変えて病状を伝え、治療方針を伝えたという。人はそれほど弱いものなのだ。

そんなナマの出来事を現実から切りとって、再構成するのが芸術である。

芸術とは悲劇を喜劇に変え、悲嘆の心を絶唱に変える技である。不幸な境遇も喜びにし、絶望で迎えた日を希望に満ちた夕日で幕を下させる。芸術家は、なぜ現実をそんな「作品」にまで昇華できるのだろうか?

それは芸術家が「俯瞰する目」をもつからだ。

絶望も希望も、悲嘆も歓喜も、孤独も友情も愛も、その本質を透徹して、なあにここから観ればどれもこれも小さな出来事だ、心臓の崇高なる一拍動にはとんと及ばない、とする目を持っている。現実の出来事や自然のありのままを背景に、主人公も、とりまきも、野次馬も、芸術の舞台の上にのせて動かしてやろう。絶望を失笑の対象にもできる。あーはなりたくないナと観客に思わせる人物造形もできる。芸術は人間を俯瞰する目をもって、人間を創りなおす。

どうしたらその「俯瞰する目」を持てるのか?

そのカギは、とりもなおさず、ゲーテの上機嫌さにある。どんなときでも朗らかで肯定的な態度をもつこと。どんな出来事もふところに受け入れて、本質を見抜いて、人間を謳いあげることに尽くすことだ。すると創られる登場人物が、モリエールの人間喜劇のように、どこにでもいるような不安定で、おかしくて、人生を楽しむ人間になる。観る人はだれもが、その舞台に自分が立っているように思えてくる。

それが創作なのである。芸術家とは、日常生活の姿勢からすでに始まっている。


https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Goethe_(Stieler_1828).jpg


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