野口体操ぶらぶら3

ラグビーワールカップ、日本代表はざんねんでした。しかし、あるラガーマンがこう言っていた。「ラグビーには人生のすべてがある」。喜怒哀楽、勝者と敗者、くやしさと決意……人はどう生きるか?がラグビーには詰まっていると。

ラグビー観戦後、「野口体操 からだに貞く」を読了。本書の3章と4章は「コトバ」についてである。けっこう読み飛ばしたのだが、なぜならしつこいほどたくさんの文字の成り立ちの話が出てくるからだ。本書のおよそ半分は、野口三千三氏がハマって、独自に研究した甲骨文字の話なのである。

たとえば「骨」という字の成り立ちは、「月」は肉が原意であり、上にのる部分は「関節」という原意だという。肉と関節をくっつけたものが骨というわけである。また「学」という文字はかつては「學」と書いた。子は「子供」、ナベカンムリは「家」であり校舎を表す。その上に乗っかるのは右手と左手の「両手」であり、手で書くという勉強の動作を表す。その中には「×」が2つ入る。この「x」は「交わり」を表す。友と友、生徒と先生の交わりである。

ほかにも「手」や「足」の文字のつくりなど、なるほど…と思わせるのだが、疑問がわいた。なぜ体操家がコトバなのか?疑問はつぎの文で解けてくる。

「すべてのコトバは、その発生をたどると、必ずからだの直接体験にたどりつく。この直接体験の実感を探り出すことによって、そのコトバの意味を変革する営みを体操と呼ぶ」(P211)

野口氏は祖先が遺した遺産は2つあるという。「からだ」と「コトバ」である。彼は体操を通じて、自分自身の生身のからだの動きを手がかりに、そこから生まれる実感を引き出す。それらはすべてコトバになっている。からだからコトバが生まれ、コトバからからだを深めていった。それが本来の人間であったと。

ところが現代はその二つは切り離され、からだは無茶に鍛えたりダイエットに流れ、コトバはからだから離れて「コミュニケーション」という乾いた道具になってしまった。だから野口氏は、からだの体操とコトバの探求をするのだ。

(体操とは)自分自身を存在させてくれる自然の神に「自然とは何か」「人間にとってからだとは何か」「からだのあり方はこれでいいのか」「この動きはこれでいいのか」「骨や筋肉は、そして意識は、どんな役割を持つべきものとして与えられているのか」「人間にとって賢いとか力が強いとかはどんなことなのか」……と次から次へと繰り返して、問い聴く営みなのである。(P234)

本書で教えられたことは、ぼくにとって巨大である。ぼくは「片手落ち」だった。

孤独、ひとりぼっち、断絶、いじめ……といった諸問題(テーマ)を解決するために、ぼくはコトバから入った。古今東西の賢人に学ぶことで、諸問題の解決のいとぐちは見つかった。ところが諸問題について文を書くためには「ひと押し」が足りなかった。

ひと押しとは「自己変革」である。自己変革を成し遂げた者しか、自己変革のことは書けない。書いてもたんなる「迷い文」になる。自己変革をしたと偽るひともいる。「ニセの変革文」は中身が薄いし売れない。ふと思いつくのは、“魔法の片付け”である。あれは片付けで自己変革を成し遂げたから生まれたのだろう。だから売れたのだろう。

ぼくにもあとひと押しが必要である。それを導くのは「からだ」だった。からだがひとや世界に向かって開いていないと、心は開かない。からだはどこから開かせるか?まず「肩甲骨から」が野口体操の教えである。続けることで開けてきた。コトバだけでなく、からだを変革することが必要だったのだ。

ここまで考えてから就寝して、夢を見た。ぼくの夢は子供の頃からずっとひとりぼっちの夢だったが、数ヶ月前からいろんな人が出てくるようになった。それもまた自己変革への道である。昨夜の夢でも誰かと港で待ち合わせをしていた。夢の中のぼくは、待ち合わせ時刻まで海の見える部屋で寝ていた。ところが布団の上から何者かがタックルをしてきた。重い!まずい!港の船に行けない!と思い切り布団をはねのけたら、猫がのっていた……

人生のおわりに向かって、自己変革をいざなう文を書く出航をします。


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