ついついむつかしい文を書いてしまう、だらだらたくさん書いてしまう。だめだこりゃあ…と思っていたら、ゲーテがズバリ、こう言っていた。
おおよそ作家の文体といいうものは、その内面を忠実に表す。明晰な文章を書こうと思うなら、その前に、彼の魂の中が明晰でなければだめだし、スケールの大きい文章を書こうと思うなら、スケールの大きい性格を持たねばならない。(ゲーテとの対話 上巻 P164 岩波文庫)
文は体から作られ、体は文に表れる。なるほどぼくがカチカチくどくど冗長な文章を書いてしまうのは、ぼくという人間がまわりくどく、無駄が多く、余白ばかりの人生を生きてきたからなのか!生き方がぐるぐるなら、文もまたぐるぐるだ。ゲーテはさらに民族別に分析もしている。
ドイツ人は哲学的な思索が邪魔になっているから、しばしば抽象的な、不可解な、冗漫な、とりとめのないものがまぎれこんでくる。しかしドイツ人のなかでも、実務家とか、道楽者といったような、実際的なことだけしか関係していない連中は、文章をじつにうまく書く。
イギリス人はおしなべてみな、生まれついての雄弁家か、現実に目を向ける実務家だから、上手に書くね。
フランス人は、社交的だから、いつも話しかける聴衆を忘れたりしない。彼らが明晰であろうとするのは、読者を納得させるためだし、優美に書こうとするのは、読者に気に入られたいためなのだ。(同P162)
「実務家であれ」とは「実利的なものを書け」と読める。ちゃんと掃除しろとか、健康を維持せよとか、役に立つものがいいというのだ。別の言い方をすれば「具体的であれ」。抽象的にではなく、具体的にこうせよ、さればこうなるを書きなさい。イギリスの実務家という意味も同じだ。
フランスの「社交的であれ」という箴言も重要だ。いつも思うのだがぼくの文には「すきま」が足りない。ぎゅっと詰まっている。だから読者がはいりにくい。壊れない程度に、ゆるくできないものか。
かつて赤塚不二夫氏は朝から酒をのんで、編集者とどんちゃんさわぎをしながらアイデアを練った。天才バカボンはバカになったから生まれたのだ。それでいいのだ。なにしろ人は年をとればだれも「3K」になる。「くどい」「気が短い」「硬い」。とりわけ「硬い」がまずい。からだが硬くなると心まで硬くなる。だから怒ってくどくど言う。
逆に「やわらかい」「やさしい」「ゆるい」の「3Y」が理想である。どうしたら「流れる水」のようにナチュラルになれるだろうか?「しなだれる柳」のように力を抜けるのだろうか。
まず「嫌になるものからはなれる」。たとえば殺伐としたニュースや政治だろうか。「四季のうつろいを見る」それには散歩をすることだ。散歩は心を解放し軽くする。「毎日笑顔をつくる」笑う門には福来たるですから。「猫と遊ぶ」うちの猫はぼくのことをマンネリだとよくいう。あのさー夫婦じゃあるまいし。だが、一番はどうやらこれだ。
肩の力を抜く。
肩に力が入っていると、肩こりや頚痛になるだけでなく、人生に問題が生じてくる。人との接し方が閉じたもの、かたいもの、自己中心になっていく。人に過度な承認欲求を求めたり、甘えすぎたり、不平不満を愚痴る。態度に出さなくても内側にそういう負の感情をためることになる。ゲーテは、閉じこもりがちな弟子のエッカーマンに、こう諭す。
もし自分の生まれつきの傾向を克服しようと努めないなら、教養などというものは、そもそもなんのためにあるというのかね。他人を自分に同調させようなどと望むのは、馬鹿げた話だよ。(同P170)
ぼくは体が硬い方なので、最近数週間、意識して肩や首やひじなどをほぐしている。だがどういうストレッチをしても、なかなか肩の力が抜けなくて困っていた。いわんや首の力も抜けない。そのコツがつかめない。
ところがなぜだろうか、ついさっき、肩の力が抜けてきた。あー、わかったーという感じがきたのだ。
するとどうだろう、姿勢がよくなった。視界が広くなった。呼吸もしやすくなった。人への恐怖感も減ってきた。どうにでもなれ、という突き抜け感が強まってきた。といっても、すぐに忘却するだろう。体がすぐに忘れるだろう。でもきっと、こういうことの積み重ねで変われるのではないだろうか。という希望をもって、しばらくゲーテを耽読したい。
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