自費出版が飛ぶように売れ、婦人公論がその一部を掲載すると大きな反響があった。そして中央公論社から1972年に書籍化されたのが本書である。
「落花抄 娘白蘭への鎮魂歌」花谷楓(か こくふう)著は、20歳の娘が脳腫瘍となり、その母がほとんど家に帰らずに病院に寝泊まりして、9ヶ月に及んだ、かすかな希望と押し寄せる絶望の闘病生活を描き、彼女と彼女をかこむ人びとの崇高さを謳いあげた。
初春のある日、娘白蘭(ばいらん)は目が痛い、ものが見れない…とうったえた。激しい頭痛と吐き気にも襲われた。内科医が鎮痛剤を打つも治癒せず、眼科医にゆくと「うちではない」と首を振られた。どちらの医師も疑ったのが脳腫瘍である。罹った病は星状神経膠腫瘍。今、グリオーマとも呼ばれる悪性腫瘍は、ステージ4は5年生存率が20%を切る。外科手術で取り切ることができないので、その後は本書でいうところの「コバルト治療」、2000年代の医療ではガンマナイフや化学治療をする。
聡明なる母は高名な文学教授に相談し、紹介されたのが日本大学板橋病院だった(本書には病院名は書いていないが、リサーチャーとしての胸が騒いで特定した)。改名されているが実在の医学部教授や医師たちが出てくる。
母は日本ゲーテ協会の理事をしていた文才のあるひとだった。だから毎日欠かすことのなかった病室での記録が書けた。描かれた闘病生活は刻一刻と胸を打つ。それをいちいち紹介する野暮なことはしない。だがひとつ、胸がつぶれたシーンに触れたい。
大学病院なので医師の入れ替わりが常にある。執刀医の優しい教授は変わらないが、主治医も研修医も内科医も変わる。入れ替わりで<現実的な>M医師がやってきた。白蘭にこういうのだ。
「あんた長生きしたい?」
白蘭はびっくりしてどうして?と聞き返した。すると、「若いんだし、長生きしたかったら、もう一度手術してもらいなさいよ。その腫れている部分が腫瘍でいっぱいなんだから」。白蘭は、でも教授先生は大丈夫といったと抗弁すると、M医師は「バリバリ切った方が治る」「ただ右目の4分の3は見えなくなる。今でも右の外側は不自由だろうから同じようなもんでしょ」というのだ。
かたわらでその会話を聞いた母は絶句した。これまで病名を伏せて、娘に希望を持たせることにいかに腐心していたか。すぐに別の信頼できる医師に聞くと、再手術は破壊的だからしない方がいいと医局で結論づけた、だが違う意見を持つ者もいる……という。母は絶望しつつ、こう書いた。
死を約束された病人をいかにして死の門まで送り届けるか、これも医師の一つの手腕というものではないか。
その日から白蘭は死を覚悟した。自殺もしかけた。母はいっときも目を離すことができなくなり、夜も眠れなくなった。やがて、母の自分を思う窮状に気づいた娘は、こういった。
「マミ(マミー=母のこと)、私考えたの、人間はいつか死ぬでしょ。ただ早いか遅いかの違いだけね。私はただ早いだけのことでしょ。だからもういいの。でもねほんとうは私が大きくなってマミが死ぬ時、今のお礼にたくさん看護してあげたいけど、もうできないわね。だからマミが死ぬときはコロリと死ぬ病気になるといいわね」
母は娘を病室のお風呂に入れて、背中に触れながら考える。この温かい背中が冷たくなる日が近づいていると…しかし母の涙は風呂の湯気と一緒に流れていった。けっして娘に涙を見せまいと。気持ちを口にせずにこう書いた。
ああ泣きたい時に泣ける人。それはまだ幸せが残っている。
患者とその家族の手記の嚆矢(こうし)となった本書は、お涙頂戴の体験記ではない。これは叙事詩である。生と死を謳いあげた詩文。苦しみのなかでもけっして消えない愛を描いた崇高なる記録である。
本書に出会ったのは、ある医師の導きがある。その医師は医学生時代に読んだ本の題名を忘れ、内容も「脳腫瘍になった子に寄り添う母の手記」とだけ伝えてくれた。ただこう付け加えた。「泣けてきて泣けてきて……」と。だからその医師は卒後に脳外科医になった。
それをきいたぼくは、リサーチャーとしての胸が騒いで本書を探り当てて読んだ。まだこの本です、という回答は得ていない。どっちでもいいのだ。いずれにせよ生と死の叙事詩へ導いて下さったことに感謝します。ぼくはこうしてひとの心を追いつつ、「ドクターの肖像」を毎号書いています。
余談。長期入院となった白蘭は本を読もうとするが、ゲーテ協会の人が差し入れた「マン家の人々」(クラウス•マン)は読めず、サザエさんを読む。母は三島由紀夫の「春の雪」や「奔馬」、高田好胤の「心―いかに生きたらいいか」や「道―本当の幸福とは何であるか」を朗読して聞かせた。三島の本は白蘭の亡くなった年(1970年)、「豊饒の海」4部作の完結と共に自死につながる。高田はラジオ放送で悩む人びとに語りかけていた。そういう時代だった。
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