天職を探したければ、子供の頃の勉強を振り返ろう。
「ドクターの肖像(ドクターズマガジン)」原稿をようやく1本書き終えた。熱を入れすぎた反動で長い昼寝をしちまった……^^;; まだ難物をもう1本書かねばならない。ともあれ、ほぼ書き終えた今回の医師物語はスリリングでハートフルだが、彼の少年時代も興味深い。その医師は自然から学んだことで「教科書が入ってきた」。
少年は海や山や川の近い地に育ち、一人で歩き回った。昆虫や花や地層を見ては目を見張った。捕まえた昆虫を観察した。花は表も裏もひっくり返した。帰ると親が買ってくれた分厚い植物図鑑や生物図鑑で、野山で見たものを確かめた。そんな少年時代、成績は中だったが、いつしか勉強が「入ってくる」ようになった。
普通の子は、教科書を学んで暗記する。リアス式の海岸とはXXXである、石灰石はこうして二酸化炭素を出す…字面の暗記だからテスト後は忘れる。だがその少年は違った。理科で「石灰石」が出てくると「あそこの崖にあった」とゴツゴツと気泡を手のひらに感じた。地理で「リアス式海岸」が出てくると、岬の展望台で踏みしめたのを思い出した。花は花びらだけでなく萼の形まで思い出された。実物から本質を学んでいたのだ。成績はメキメキ良くなってトップになった。そればかりか、のちの医師人生を「地方の現実」から始めて、そこに理想の医療モデルを創り上げた。
少年時代の勉強には、その人の生涯を導くヒントになるものがある。他の医師の少年時代を、ドクターの肖像の最近号から引いてみよう。
広島大学の学長越智光夫氏は、マジメな寮生活を遊び好きの転校生で乱されて成績をひどく落とした。そこで彼は「1日1時間」だけ集中して勉強した。それで成績を元のトップにもどした。瞬発力、集中力のある子だった。医師になってからのひざ関節治療法の独創的発明には、十分にその突破力が現れている。
獨協大学病院長の平田幸一氏は風変わりな子だった。体育では一人で空を飛ぶ鳥を見ていた。テストでは解答欄に「教科書を見れば書いてある」と書いた。母は呼び出された。今でいう発達障害かスペクトラム症候群だったのだろう。その氏が頭痛診断と治療の世界的権威になったのは、自分の中に抱えていた問題を解こうとしたからである。
「坊ちゃん、しっかりつかまってな」と、雨が降るとばあやに背負われて、靴を濡らさないように幼稚園に行ったのは、大阪医科大学付属病院の奥田凖二教授である。甘えん坊のお坊ちゃんだった。順調なキャリアがやがて荒波にさらされるのは、甘えて育った反動だった。だが甘えることはたっぷり愛されることでもある。注がれた愛は、失意のどん底にあっては強みに転換される。彼は窮地を脱することができた。
がん研究会有明病院長の佐野武氏は、江戸から13代続く医家生まれ。医師になる宿命が「誇りであると同時に重荷」だった。小学生時代、共産党支持者の担任の先生から「人は皆平等だ、医者の息子だからって自分が特別だと思うな」と戒められた。伝統の重さと世間の目がつらくて、屋根に登っては星を眺めた。伝統の重荷をいかに突破したのか?それは星空のように広い世界へ出ること。医療の国際舞台の第一線で大きな業績を上げた。
板橋中央総合病院の塚本雄介氏は、高校時代に哲学者サルトルの「存在と無」を読んで、神学授業の先生に挑んだ。「先生は、すべてを突き詰めるとそこには神様がいると言いますが、全てを突き詰めると、僕は無だと思います」、まいったかと啖呵を切った。物怖じせず、弁の立つ子は英語が特にうまくなった。慢性腎炎をめぐる国際学会で、欧米の一流医学者たちのリーダーとなって議論をまとめたのは実にうなずける。
その人を読み解くヒントは幼少期にあり。ぼくは幼少のエピソードの意味を考え抜いて、つかみとってから書いている。だから疲れる……^^;;
振り返って自分はどうだろう?
ぼくは幼少から一人でものづくりをして、絵や文を書くのが好きだった。最初からそれを生かす道に進めばいいものを、早く結婚して子供ができたせいで、会社勤めに励んで、努力して自分を合わせた。だが勤めだしてまもなく額にハゲを見つけたように、それは自分らしくなかった。最初から文章を書く仕事をするか、ドクター中松のような発明家になればよかったのだ(先日報道のあった「ポータブルエアコン」はおもしろいね)。
そんな簡単なことじゃないといいますか?でもね、人生は一度きりだ。
今、もしも君が「仕事と自分の関係」に悩むなら、幼少期を思い出してみよう。そこからまっすぐ来ることが成功の近道だから。そこから「どれほど曲がって」来ているだろうか。本当は何が好きで、どんな子だっただろうか。苦しくても、そこには喜びがあるだろうか。あればよし、なければ少年少女時代のことを思い出してみよう。決してムダにはならない。
歯医者の帰り道にて。猫も悩んでいるのだろうか…
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