猫を背負って散歩させる人は、そんじょそこらにはいまい。背負い型のキャリーバッグに、猫のピノ子を投入して、ジッパーの蓋を閉める。よっこいしょと背負って、近所を歩く。最初はにゃあにゃあ…怖いよーというので、なだめすかしながら散歩する。
いつものコースは、我がアパートの向かい側のブロックである。路地を100mも入ると、窓際でうつらうつらする家猫がいる。背中のピノ子をそちらに向けて(キャリーバッグはメッシュ部が3箇所あるので外が見える)、「ほら猫友いるよ〜」と声をかける。窓際の家猫は南向きの窓で幸せそうだ。だがこちらの背中の猫を見ると、一瞬にらむ。猫はいつもどこか緊張している。その家の隣には、老婆が長毛の猫を飼っている。庭で毛玉をとっているのをよく見る。それも幸せそうだが、抜かりなくこちらを観察している。
踵を返して、我がアパートのブロックにもどる。その奥に行くと、自由な強い飼い猫とよく出会う。こいつは大物である。空き家の縁側にのたりと寝そべっていたり、あちこちに悠々とマーキングしている。ふてぶてしい顔は百戦錬磨を表す。まったく逃げるそぶりがなく、ぼくのそばをゆうゆうと歩いて去っていく。そこからもう数ブロック離れたところには、兄弟か姉妹か、ツイの2匹がいる。キビキビと走る彼らは、痩せて敏捷でいつも油断がない。
我が猫ピノ子には、大物感も敏捷さもさっぱりないな……と思ったとき、ふと、日本社会の今が見えた。
向かい側のブロックには大きな一軒家が多い。個性ある家づくりで、綺麗に庭木も手入れされ、車を3-4台も持つ家もある。中〜小金持ちの富裕層なのだろう。だから猫ものびのびとしているのだろう。一方我が方のブロックは、飲み屋や廃れた商店が多い。悠々自適なひょうたん屋や閉院した医院もある。家は小さな建売住宅や老朽アパートが目立つ。相対的に貧乏である。そこを縄張りに生き抜かねばならないからふてぶてしく、あるいは痩せて敏捷なのであろう。
ぼくはさらに、猫と住居に身近な格差社会を見出した。
日本は平成30年間で経済が縮んだ。なにしろ30年前の初任給と今の初任給は大差ないでしょう。儲かるトヨタでさえ、今夏の管理職の賞与は5%削減だという。昔の三河の殿様家康なら「椀の底が見える味噌汁」という質素さで戦に備えたものだが、今のトヨタは何に備えるのか。人材への投資縮小は社会全体の縮小である。そこへきて政府の骨太方針は増税だ。これでは財布ばかりか心が縮小する。いじめや心の病気が増えるわけである。
だが政府や大企業を責めても仕方ない。政府も大企業も、時の社会を映す鏡にすぎない。我々の社会全体が不況や低成長を作っているのだ。すでに骨太の資産をもっている人は、あくせくしようとしない。骨細のひとびとはいつまでも細いから、動くことができない。それが今の日本社会である。
われわれは窓際の猫のように、快適すぎるのではないだろうか?こちら側のブロックの猫のように、百戦錬磨や敏捷さが乏しくなったのではないだろうか?
そこでひとつ思う。誤解を恐れずいおう。われわれは、もう一度ハングリーにならなければならない。
たとえば消費税の増税分を「教育の無償化にあてる」という政策がある。妊婦や幼児への支援ならともかく、高等教育の無償化が必要だろうか。同じような教育をみんなに等しく与えることが正しいのだろうか。それは偽の平等、単なる選挙民対策である。
教育は誰にも無償ではなく、優秀な人や努力する人にこそ学資を与えてほしい。学問だけでなく、スポーツやアートやエンタメ、実用的なこともいい。起業でも、ヒマなリタイヤからの脱出でもいい。そのために自選他薦ができる、政府直結SNSでも立ち上げるべし。身近でがんばる人がどんどんオモテに出ていければいい。多様な社会で多様にがんばる人びとを伸ばすーそれが真の平等社会ではないだろうか。
ハングリーであれと、かつてりんご屋の起業家が言っていたが、これからの日本でハングリーとは、大富豪や大事業家を目指すこととは限らない。社会を良くすること、人を救うこと、環境を良くすること、生きることに前向きになること、そういうことにハングリーになればいい。限界成長や効率を突き詰めたり、グローバル化を進めるのではなく、それぞれの社会を成長させながら、自分の心の成長を楽しめばいいと思う。
自分の心の成長にハングリーであれ。社会の善にハングリーであれ。のほほんといつも寝ている猫でさえ、どこか用心深く、常に危険を察知するアンテナを立てている。そこは見習いたいものだ。
ピノ子はうちの子になって丸3年が経ちました。早いものです。
コメントを残す