歯医者の待合室のTVで「正論おじさん」を取り上げたワイドショーをみた。三重県に頑固な高齢者がいて、商店街の歩道にはみだした看板やノボリを「無断で」動かして、「歩道を整然とたもつ」のが日課だという。たしかに歩道にはみ出す看板やのぼりは「違法」である。だがあまりにスッキリした商店街はどこか商店街らしくない。正論のおかげでにぎわいが薄れて、売上が減ったとボヤく店主も多いというのがワイドショーの内容だった。
誰がつけたのかそのあだ名、正論とは名ばかりで、むしろ単なる頑固オヤジに見えた。この高齢者に限らず、ひとは歳をとると頑固になって怒りっぽくなる。かくいう自分も頑固になったな…と感じる時がある。
いつのまにか「べき論」を言い出し、自己主張し、自分の間違いをひとのせいにする(先日もWebショップの運営者と一悶着あった。あんたが悪いのだ、わかってる?笑)。そんなとき「おれも歳とったなあ…」とため息をつく。だがため息をつくのはいい方だ。「自分が頑固である」と認識しているから。
「べき論」や「ルールにのっとって」というのは楽である。考えなくていいからだ。相手はそこにいてもいないようなもので、自分の思考回路の中だけにいればいいのだから、頑固でいるのは楽なのだ。視野が狭くなり運転があやしくなるのもそれだし、あたり構わず話に夢中になるおばさんも認知機能の低下が疑われる。
そもそもひとはなぜ頑固になるのか。
ランダムにあげてみると、生き方が不幸、家族がいない、いても仲が悪い、孤独で閉じこもりがちで、ウダウダ考えて頑なになる。耳が遠くてひとの話が聞こえないのも原因だろう。
一方、頑固じゃないひと、柔軟なひとはどんな生き方なのか。家族や相方に恵まれていると温和になるともいう。さまざまな苦難をかいくぐってきたひとは、人生山あり谷あり、多様性の考えが身についているので、寛容になるともいう。裕福だと柔軟になるのか、貧しいから頑固になるのか。頑固になる職業や肩書きはあるのか。社長は頑固になりやすいのか、イヤ社長になれなかったひとが頑固になるのか…
頑固の迷路に入りかけた。そのとき、ひとつ頑固理論への突破口をもらった。「免疫」である。頑固心理に「免疫理論」を適用してみたい。
免疫とは、「一度かかった病気には二度かからない、二度目の「疫」病から「免」れる。それが免疫という言葉の意味である(「免疫が挑むがんと難病」岸本忠三著)。
たとえば花粉症の症状は、花粉をやっつける免疫反応が制御できなくなることで起こる。花粉が体内に侵入してIgE抗体が作られる、花粉がくるたびに反応してくしゃみ•鼻水がとまらなくなる。つまり、自己の組織や細胞を異物とみなして、攻撃する免疫細胞がある。
だが攻撃にさらされているのに、アレルギーにならない人もいる。それは攻撃を抑制する「制御細胞」が存在しているからだ。野盗に襲われる村人たちを守る「七人の侍」を思い出そう。野盗は花粉である。その花粉の侵入を防ぐのが村人の役目だが、武器が乏しく弱いので、浪人を雇う。浪人は斬りまくって村人の力になるのだが、時にアタマに血が上って、罪のない村人までも斬ってしまう。
野盗は花粉で、村人は抗体、浪人が制御細胞である。このメカニズムを心の病理に当てはめてみよう。
ひとはだれもが「スケベな自己」や「小心な自己」、「嫉妬の自己」「頑固な自己」などさまざまな「裏の自己」を抱えている。これらネガティヴな自己を出さないようにする「表の自己」がいて、バランスが取れている。だがなんらかの理由で表の自己がゆるくなり、裏の自己が出てくる。「頑固な自己」はどうやら加齢とともに出てくる。
ところが「頑固」が出る(多い)人と出ない(少ない)人がいる。そこには、頑固を抑制する制御物質があるはずだ、というのが我が仮説である。それは何か?と言われても、そんなことはわからんよ(笑)なにしろ制御細胞理論も、医学の世界の叡智を重ねて、最近わかりかけた段階なのだ。効果のある認知症薬が開発不能ということを考え合わせると、これからも人類は頑固に手を焼くのである。
とはいえ、答えもうっすら見える。ひとは頑固と柔軟の間でゆらぐ存在なのだ。ゆらぐ自己を認識できればいいのである。
あー、頑固がでているな、抑えなきゃと。ゆらぎがあるから、ぼくらは頑固ジジイにならずに、嫉妬野郎にもならずに、スケベになりすぎずに、生きれるのである。ひとはゆらぐから強くなる。ひとはゆらぐから安定しているのだ。ゆらぎが大きくなりすぎると病気になり、ゆらぎが無くなるとき死に至る。
思えば、ひとはだれもが非自己を内部にかかえているものだ。では自己が真なのか、それとも非自己が真なのか。正論おじさんからずいぶん遠くまで来てしまった(笑)。今朝は以上です。
この揺るがない人に来週も会いにいくだろう……
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