マイケル•クライトンの「緊急の場合には」が照らす明かり

“必要の場合”だったので、マイケル•クライトン(Michael Crichton)の「緊急の場合には」を読了した。1968年にジェフリー•ハドソン名義で出版し、高評価を得たサイエンススリラーである。

曲折した経歴を持つ病理医のジョン•ベリーの友人、産婦人科医のアーサー•リーが、不正な(必ずしも違法ではない)人工妊娠中絶により、若い女性を死に至らしめたという容疑で逮捕された。助けを求める友人のために、その病理医としての知識と、探偵もびっくりの推理力と行動力で、謎の核心に迫っていく「1週間」を描いた。

テンポのいい会話、スリリングな展開、悩める医療人や患者たちのリアリズムという要素がからまりあって、読者を惹きつける筆力はさすがである。後年の「緊急救命室ER」の要素も随所に見える(クライトンはERの製作総指揮を担当)。

クライトンが本書を筆名で書いた理由は、執筆当時まだ学生だったからだ(参考サイトと画像引用元)。1964年にsumma cum laude(最優等)でハーバードを卒業し、1969年にハーバード•メディカルスクールでMDをとった。医師としての勉強のさなかの執筆だったことも驚愕であるが、彼は最初から作家になりたかったという。

しかし当時アメリカで、作家のみで食えるひとは200名しかいないという現実を知り、パートタイムの作家にはなりたくなくて医師になる道を選んだ。

医療の世界に入ると、彼は人を助ける崇高な仕事に惹きつけられた。しかし、そこには悩める医師をとりまく過酷な現実があった。過誤でもない訴訟に負けて医師を廃業する人もいれば、執刀しやすい患者だけを選んで名声を上げる外科医もいる。病理医のように薄給に甘んじて24時間働く医師もいる。その人間模様がクライトンのライター魂を揺らした。そのうちに気がついたことがあった。

医療者として診断し、鑑別し、確定診断をつける。処置し、処方し、手術し、術後を診る。患者の人生への理解を深める。同僚や組織との軋轢を知る。これらはすべて物語の要素である。つまり医療者の仕事はそもそも物語向きなのである。

だからクライトンから本書や「ER」その他の医療スリラーが生まれたとも言える。だから医療人には文章を書く人が輩出されるのである。かつて漫画家になった医師もいましたね。

しかし、すべての医師が文章が書けるのか?といえばもちろんNOである。なぜなら経験で書けるのは「1冊」せいぜい「2冊」だけだからだ。

医師でない例だが、たとえばある商社マンのリタイヤ後の処女作は痛快傑作だった。しかし2冊目、3冊目はどうだったか。シューズデザイナーの高田喜佐はエッセイストになったが、やはり処女作以上のものはなかった。最近でいえばビリギャルの2冊目がおもしろいかといえばどうだろうか。

文を職業とするには2段階、あるいは3段階の成長が必要なのである。

最初は「自分の体験」で書ける。ただしそれは自分の懐中電灯で照らす、ごくごく狭い範囲を照らす、「自分の分身物語」である。次は自分の経験の光を拡大して、もっと大きな光、たとえば投光器くらいにして、社会を照らす「みんなの分身物語」にしなければならない。誰もがその物語を楽しめるように、エンターテイメント性や共感しやすい人物像を影絵にして動かさねばならない。さらに扱うテーマに、社会の未来要素や、いつの時代でも共通する勧善懲悪が込められていれば、「社会の分身物語」となって大ヒットになる。クライトンでいえば「ジュラシックパーク」であろう。

しかし職業作家から物語世界に入ろうとすると、問題になることがある。専門性、または当事者意識である。自分の専門外のことや、他人の体験を描いているばかりでは、うすっぺらいのだ。自分が体験した何かがないと深みが出ない。

だから自分の小さな懐中電灯の明かりが、非常に大切なのである。

その意味で、本書「緊急の場合には」を「緊急救命室ER」の助走作品としてみると、作家クライトンの中で重要な位置付けになる。ERが医療のリアリズム、場面転換のスピード、人びとの苦悩、明日への光という物語を毎週結晶できたのは、クライトンの諸要素ー作家志望、自己体験、医療問題、社会問題ーを集約できたからである。

最後に、本書の原題「A Case of Need」は“社会的な事件”という意味あいと、“In case of Emergency”つまり「緊急の場合には」という用語の掛け合いがあると思う。翻訳のタイトルでは「病理医探偵 確定診断をつける!」とでもすれば(ベタか笑)、医者や医学生にもっと売れたのではないかと思いました。

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