阪神タイガースの藤浪晋太郎投手のゆくえが気になる。
野球ファンなら周知のことだが、阪神のエースはもとより、球界を代表するエースになれる逸材がここ3年ほど伸び悩んでいる。その理由はやじうまの憶測に過ぎないが、チームの育て方にあるように思える。
前監督時代に根性論をぶちかまされ、罰ゲームのようにボロボロに打たれるまで投げさせられた。悩んだあげくに制球難、自信を喪失してますますストライクが入らず、相手チームは怖がって左打者ばかりをならべて、ぶつけられないようにした。コーチはよってたかってアドバイスをして、投球フォームをあれこれいじった。そして自分の持ち味がわからなくなり、霧の中の二軍生活に入った。
心配する野球人たちもいろんなことを言う。
強打者で頭脳派の落合博満氏は「プレートの位置を変えろ(相手を見えなくしろ)」という。投球時に三塁側ではなく一塁側のプレートを踏んで、相対するバッターのふところを見えないようにせよ、へたに見えるとあれこれ考えるので、かえってストライクが入らなくなると。
ほんとうだろうか?大打者福留孝介氏も心配する。福留氏は「打者は投手と違うことを思っている。相手の目線があることを知れ」と打者の心理を考えなさいと反対のことをいう。中日の監督の与田氏も敵対する相手チームという立場を越えて心配する。表立って助言はできないが、おそらくトレードでもして育てたいと思っている。
外野から見ていて実にはがゆい。まず才能がスポイルされているのがはがゆい。藤浪投手が反抗しない(ように見える)のがはがゆい。「おれが投げたいボールを投げる」と言い切らない優等生ぶりも実にはがゆい。まあそれを許さない組織環境がモヤモヤする。
だから藤浪投手の不調の原因が、技術か心かといえば、両方だ。正しい助言は両方を踏まえたものでないと、立ち直りのきっかけにならないだろう。ひとり、いいことを言ってるのが、元ドラゴンズの強打者の山崎武司氏。彼は「個人事業主」という言葉をつかった。
野球選手は個人事業主だ。先輩やコーチはいても、最終的には自分で考え、大きくなっていくしかない。「ポテンシャル」や「伸びしろ」を決めるのも、煎じ詰めればこの能力に懸かっている。
先輩に学び、コーチに教わり、監督に道を授かるとしても、どの助言が自分にあっているかを選ぶのは自分。では、どうやって選ぶのか?といえば、「直観」だろう。これは自分に響くな、と思えば取り入れ、響かなければ取り入れない。ということは、コーチや先輩の特性や能力を知るのも大切である。いわゆる「相性」である。では、取り入れるかどうかを決めるものは何か?といえば「自分の持ち味」をつかんでいることである。
ところが自分の持ち味は、意外に自分ではわからない。
藤浪投手の場合は、実は「荒れ球」にあるのではないか。打者に当ててはまずいが、荒れ狂うほど元気の良いボールがズドンとくると、まず打てない。その球を投げずに、お行儀よくコントロールされたボールを投げなさいと言われたから、彼はおかしくなったのであろう。
自分の真の持ち味は誰かが教えてくれる。それはファンや先輩やコーチらの何気ない一言である。それを信じて、それにすがって、その持ち味を大きく育てていけばいい。それに沿って、コーチなり道具なり方法なりを、自分なりに選んでいけばいいのではないか。
閑話休題。
あれこれ藤浪投手のことを書いたが、実は僕自身、今悩んでいるので彼のことが気にかかっている。これまでとちがうスタイルの文章を書こうとしている。ところが藤浪投手のようにカタチから入って、ファンタジーやら劇画調やらドキュメントやら、いろんな文体を試しては失敗し、スランプを感じている。自分の持ち味は「心への切り込み」「エモーショナルな盛りあげ」だと思っているが、文体を試すうちに持ち味から遠くなってしまった。
悩んだあげく、持ち味は変えずに、何か別のものを変えていくべきだと思い当たった。それはなんだろう…
と考えていくと、「視点」という言葉が降りてきた。連載「ドクターの肖像」では医師の生涯を描くため、大きな視点をもつようにしている。その視点を低くして、登場する人びとそれぞれの視点で書けないか。書く内容は持ち味を活かしたままで…
それを今日午後から試してみようと思います。なにしろ僕も個人事業主ですから。
自分が勝てること、買ってもらえることを持たないとならならない。自分をいかにつくっていくか。自分をいかに保っていくか。自分をいかに変えていくか。その繰り返しが個人事業主です。
ついに複式簿記で青色申告できるソフトを導入しました。苦手なことは道具にお任せ……^^*
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