山岡荘八「徳川家康」は日本版「戦争と平和」

ある人が生き方に悩んでいた時に手にした本が「徳川家康」である。作家山岡荘八が、文字通り命をかけて、1950年3月から1967年4月まで17年にわたって新聞連載した歴史小説である。なぜその人は悩んで本書を読んだのか?を知りたかった。もうひとつは、個人的に「弔い」の思いがあった。全26巻を18冊の豪華な装丁にまとめた昭和本を入手して、最近ぽちぽち読んでいる。

本書は徳川家康の生母である於大の方が、松平次郎三郎広忠の正室となり、最初はうちとけなかった仲を強くして竹千代を生んだところから、その子の一生を描いたものだ。貫くテーマはなんだろうか。先行して読んだ第6巻にあった次の言葉を胸において、読み出した。

殺すものは殺される、生かすものは生かされる。

いつ寝首を搔かれるかわからない戦国の世において、家康は一貫して「戦のない平和な世界」をつくろうとした人物として描かれる。いや、前半5巻まで読んでみたところだが、そう考えているのは家康ばかりでなく、織田信長も、草履取りの秀吉も、智力を尽くして戦いながらも、ただ国を盗る独裁者ではなく、心のどこかで平和を求めているようである。

平和を妨げるものは、信長や秀吉といった武将の「国盗り」ではなく、むしろ愚かな武将(代表例は今川義元の子、氏真)や、人質(子を差し出し、妻を差し出し)という慣習にある。君主の愚かさが城下の人々を戦火のまきぞえにし、田畑を荒らして飢えさせる。人質が疑心暗鬼を生み、戦をながびかせ、新たな災いの種となる。

竹千代(家康)が雪斎(教育係り)に教わる孔子のエピソードが興味深い。孔子の弟子の子貢が「政治とは何か?」と孔子に問いかけると、孔子は「国家には食と兵と信が必要だ」と答えた。この話から、雪斎は「ひとつしか選べないとすればどれを捨てる?」と竹千代に聞く。竹千代は「兵」と答えた。

人は食べ物がなくては生きらませぬ。が、槍は捨てても生きられまする。
(第2巻 P85-88)

それは正しいと雪斎はいうが、その次は?と聞かれた竹千代は「信がいらない」と答えた。「食」がなければ飢えるから一番大切だと思ったからだ。そこで雪斎は首を振る。

わずかな「食」を分け合うには「信」がいる。信じあえるゆえに人間なのじゃ。人間がつくっているゆえ、国というが、信がなければ獣の世界。獣の世界では食があっても争いが絶えぬゆえ生きられぬ。(P85-88)

しかし、戦国の世という獣の世界に生まれた限り、戦わねばならない。とりわけ困ったのが、桶狭間の合戦後、家康を苦しめた一向一揆である。宗教を盾に暴動を起こす人びとを討とうすると、母於大より「それはならない、中には家臣もまぎれている」と諭される。ではどうすればいいのか?と反問すると、母は「許しなされ」という。許せば戦にならないと。実際、家康が許すと一揆は消えていった。母於大がそう言ったのは、その母、つまり家康の祖母である華陽院の次の教えでもある。

人の心の奥にはのう、みな御仏と悪鬼がともに棲んでいる。悪鬼ばかりの人もなければ、御仏ばかりの人もない。わかるかや?相手の心の悪鬼と交わってはなりませんぞ。それではそなたも鬼にならなければ済まぬ道理じゃ。
(第1巻P48)

こちらが鬼の顔をもてば、相手の顔にも鬼だけが見える。こちらが仏の顔をもてば、相手の顔も穏やかになる。「戦いを好むものは滅ぶ」のである。日本の今の隣国との関係にもあてはまるのではないだろうか。

本書の執筆は山岡荘八の敗戦体験から端を発している。世界大戦終戦後、占領下の日本を呆然と眺め、日々品川の海に釣り糸をたらして無為に過ごしていた山岡は、突然「平和はまだどこにもない」という思いにとらわれた。そこで突き動かされるように本書を構想し、ペンをとり、原稿用紙17,400枚に及ぶ大作を書き上げた。山岡荘八氏はあとがきに次のように書いている。

人間の世界に、果たして、万人の求めてやまない平和があり得るや否や。もしあり得るとしたら、それはいったいどのような条件のもとにおいてであろうか。いや、それよりも、その平和を妨げているものの正体をまず突きとめ、それを人間の世界から駆逐し得るか否かの限界を探ってみたいのだと。
(第1巻 山岡氏のあとがきより)

この1964年刊の18冊であるが、実は父の蔵書中に同じ版があった。当時1冊620円、現在の貨幣価値にすれば5000円以上、18冊買えば10万円である。父が死んだあと「なんだ歴史小説か…」と遺品整理にまぎれてすべて捨ててしまった。申し訳なかった。とんでもない話だった。読めばこれは我が人生の書、文章修行の書である。先般メルカリでごく安価に手に入れたこと、父上におかれましては御仏の心をもってお許し願います。父よ、ありがとう。

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