「私が日本人になった理由」は、2019年2月24日に逝去したドナルド•キーンさんが、NHKのインタビュー番組(2012)で語った言葉を書籍化したものである。震災を機に日本人になったキーンさんは帰化申請をすると、「なぜもっと早く申請しなかったんだろう、長い間日本人になりたかったと気づかされた」と語る。元々永住権を持っていたDonald Lawrence Keeneさんが「キーン ドナルド」になる手続きはスムーズだった。
だがどうして彼は日本を愛し、日本人として死のうと思ったのだろうか?それは初めて刺身を食べた時、実に美味しいと感じたがワサビは嫌いだったが、慣れたらそれも好きになったプロセスと似ているという。彼の愛した日本を探しながら読んでいった。
最初に触れた日本文化は「源氏物語」。18歳のキーンさんはニューヨークのタイムズスクエアのホテル内の本屋で、2冊セットの英訳の源氏物語を買った。49セントの本で日本に魅せられた。しかしその年は1940年、ナチスドイツが欧州各国を占領し、米国にも空爆するといわれた時だった。
源氏物語に描かれた登場人物たちは、愛と美のためだけに生きています。それは忍び寄る戦争の影に怯えていた私の生活とは正反対のものでした。私は文字通り「源氏物語」に救われたのです。(本書P56)
語学が堪能で、高校を飛び級して16歳で大学に入学したキーンさんは、平安時代の平和に魅せられた。真珠湾攻撃から日米開戦を機に、米海軍の日本語学校に入学して通訳となる。だが彼は日本人に敵愾心を持たず、将校として捕虜を尋問するときも、型通り氏名年齢出身地など聞いた後は、「好きな音楽は?」「好きな本は?」と雑談ばかりした。
なぜなら彼は日本語が好きだったからだ。
とにかく私は日本語そのものに惚れたと言うしかありません。面白くてたまらない、それが私の正直な感想でした。(本書P66)
だから早く読めるようになったし、しかも略字ではなく本字(ほんじ)、「薔薇」「憂鬱」といった画数の多い漢字を好んだ。「台湾」ではなく「臺灣」である。ベトナムでもかつては漢字を使っていたのにアルファベットを使うようになっていかんと語っている。
そんなキーンさんは1953年、京都に住みだして日本の寺や庭園をこよなく愛した。とりわけ銀閣寺に目を見張ったのは、欧州の王侯貴族が住んだ城が煌びやかなのに対して、銀閣寺は質素で平民が住んでも違和感がないと感じたからだ。粋の日本文化の原点を彼は将軍足利義政に求めた。
(応仁の乱で)焼け残ったのはわずか三つの建物と言われています。三十三間堂、六波羅蜜寺、それに千本釈迦堂です。京都中が焼け野原となり、ぽつんぽつんと三つの寺院だけが残ったというのは、とても想像できない光景です。そして、次の十年、二十年といった段階で、今日まで続くほどの生命力をもった文化が生まれたというのも、本当に信じられない発展です。(本書P34)
足利義政はそんな壊滅的状況でも文化を残した。能は絶頂期を迎え、雪舟の絵画が生まれ、東山文化と言われる畳の間、床の間、花道が生まれた。キーンさんは壊滅の中の日本人の奇跡を賞賛する。太平洋戦争当時の日本人にもそれがあったという。
太平洋戦争中、キーンさんは日本兵の日記を読む機会があった。そこには食料もない極限状態で迎える元旦の心境や、十三個しかない豆を三人でどう分けるかと書かれていた。戦いを挑む人もいれば、戦いに疲れた人もいた。日本人が日記を書くのは「土佐日記」や「紫式部日記」などの伝統ゆえと考えた。そして出会った本が高見順の「敗戦日記」である。
その日記の中で戦時中の様子が描かれ、最初は外地の事情も語られますが、終戦間際の様子は特に息が詰まります。昭和十九年の時点では(銭湯で)まだ女たちの会話が壁を越えて聞こえ、醤油が足りないとか何がないという不満が語られていたのに、二十年ともなると、疲れ果てた沈黙だけが伝わってきた。(本書P84=要約)
終戦後、上野駅には人があふれ、電車は遅れ、外国なら暴動になりそうな時でも、日本人は整然と列を作っていたと高見順は書いた。同じ光景が2011年の東日本大震災の時にあった。誰も盗まず、誰も乱さず、助け合うシーンを見て、キーンさんは日本人になろうと決心した。
私は東日本大震災、そして地震と津波によって引き起こされた原発事故に際して、応仁の乱で破壊された京都を連想し、講演などでも再三、その話を持ち出しました。日本は過去に壊滅的な打撃を受けた。しかしそのたびに立ち直った。だから希望を捨ててはならないと語り続けたつもりです。人々を勇気づけたいと思ったからこそです。(本書P102)
だが震災後数年で日本人のあの災害への記憶は薄れてきた。立ち直れない弱者はまだいっぱいいるのに、表面を建築物で覆われた瓦礫の下へ見えなくなった。そして今、隣国との冷戦を当然と思う人が増え、軍備増強にも賛成する人が増えた。
キーンさんの名前の雅号「鬼(キーン)怒鳴門(ドナルド)」は、鬼怒川の「鬼怒」と四国の「鳴門」をあてたという。なぜこの漢字か?といえば難しい字が好きだったのと、僕はもう一つ理由が思い当たった。「彼は怒っていた」のではないだろうか?「怒りが渦を巻いていた」のではないだろうか?震災後の今の日本を嘆きながら亡くなったのではないだろうか。心から愛したからこそ、そう感じていたのではないだろうか。
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