「インタビューもひとつの方法論ですね」
と、年末に仕事で会った人に言われた。インタビューあるいは書くことは、自分の方法論である。
方法論とはなんぞや。元は哲学用語で「真理を知るための考察」などとムツカシイ用語説明があるが、少しくだいていえば、「経験で培われた姿勢や技術や知識」がその正体であろう。もっとくだいていえば、自分の専門や得意なことをするための「装備」みたいなものだろう。
だがそれだけでインタビューができ、文が書けるだろうか?ノーである。
インタビューは質問して聴いて、書き留めて再質問する技術。文章を書くことは構成のテクニックや言葉の表現力。いずれも「技術」に属する。技術だけでは質問することも文も書けないのは、まだペッパーロボットがおばかなのと同じ、ディスプレイとキーボードから文は生まれないのと同じである。
技術は必須だがそれだけではだめだ。まんじゅうでたとえれば「薄皮」みたいなもんだ。薄皮で包まれる「アンコ」が必要である。アンコとは何だろう。
人間と医のライター(自称の肩書)として医療でたとえれば、医療や医学は医師の方法論である。だが医師に「人を救う気持ち」が乏しく、医師であることが名誉や金を稼ぐ方法論だとすれば、自動車でひき逃げをする人になる。フェラーリで公道をレースして自損事故を起こす人になる。看護は看護師の方法論である。看護師に「人を助ける気持ち」が乏しいと患者はそれを見抜いて、用がなくても夜昼かまわずナースコールを押しまくるものだ。いくら立派な卒業証書や免許があっても、それは名札、オンリー薄皮である。人相手のサービスには「思いやり」というアンコが必要なのだ。
文のアンコは「洞察」や「推敲」であろう。インタビューやリサーチでわかったことを深めていく方法である。薄皮とアンコが一体になって文ができる、それが方法論ーと言い切ろうとしたが、まだ何か足りない気がする。
意外と方法論という言葉はむつかしいのだ。もう一歩奥に突っ込もう。奥にどっさりあるものーそれは「イチゴ」。
イチゴの正体をひとことで言い切ろう。それは「哲学」である。いかに存在するか、いかに生きるか、いかに社会の役に立つか。その人の生存理由である。それはその人の立ち振舞いすべてを決める。
どうやら方法論が観えてきた。イチゴ(哲学)があってアンコ(精神)があって薄皮(技術)があるーこの三位一体が方法論ではないだろうか。どれも欠けてはならない。甘酸っぱいソフトネスというコンビネーションが美味いのだ。どうだ、まいったか(笑)
と、ここまで考えていったん寝床に入ったのだが、どうも僕らしい解釈が足りないような気がした。ツラツラ考えて思い出したのが、最近僕の見る夢に変化があることだ。
かつては「廃墟の迷路のような建物内を迷い、どこにたどり着かない廊下を歩み続ける夢」ばかり見ていた。暗くて、瓦礫や穴があり、人気が乏しい場所をひたすら歩く。ほとんど病気である……。それが最近、変わってきた。
たとえば壁面を登り足がかりを探す、一歩ずつ上がると上に人がいて、僕の足を踏んづけようとする。それに抵抗して足にしがみつく!戦うのだ!目が覚めるといっしょに寝ていた猫をムンギュとつかんでいた。当然怒られた(笑)とにかく夢で戦うようになってきた。もっとやろう、やれる、という夢なってきた。大きな変化である。
明け方にそんなことを考えていると、ふと降りてきた思いがあった。
愛する人がいる。その人が幸せになることが何よりも大切だ、ということが心の底に降りてきた。自分の成功や人への嫉妬、自尊心の満足とか、そんなことより、その人のことが「何よりも大切だ」と思えた。そんなことは、かつての結婚ではまったく思えなかった。仕事に逃げていた。お酒に逃げていた。だが今はちがう。ああ、やっとそこに来れたか…そんな気持ちになれた。
それで方法論の真髄をつかんだ。イチゴは愛、アンコは相手を包む思い、薄皮は愛を守り、また戦うシールドなのである。
これを納得して頬張ってもらえるかどうかわからない。ともあれ方法論というコンセプトは奥深いものがある。迷ったらこの文を再読してください。忙しかった年末年始、今日から3日ほど休憩です。
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