50(代)の手習いでLINEスタンプを作った。キャラクターは僕が分身だろうか…^^;
前から作ろう作ろうと思っていたのが今になっただけである。手書きの絵をスキャンしてPhotoshopできれいに、というのが大変な作業に思えてやっていなかった。そんなある日「スマフォだけで完結できる」と知った。絵を写真を撮って、切って色塗って文字添えて、じゃ~ん!?それってお手軽すぎやしませんか。マアやってみるかと、画像加工アプリ「IbisPaint(アイビスペイント)」をダウンロード。
キャラクターたち(ジョニーとレオンとこわい女)は前職時代に考案して、イベント案内等で使った。長野県の温泉PRのイラストにも起用されたこともある(^^)由緒あるものだ。最近では僕の副業「御朱印帳キット販売」の説明書でも出てくる。そこでまず40個ほどキャラのアイデアを下書きし、16個に絞って(LINEアプリでは8個から販売可能)販売申請を出した。ところがいろいろ不具合を感じて修正して、24個バージョンで12月11日から販売開始した。おそらく次のような「問いかけ」が自然に出てくるはずだ。すなわち…
こんなことやって何の役に立つんだ?
もっともだ、売れっこないので時間のムダだ。批判は受けて立とう。だが無駄にだって何かしら効用があるのだ。
ちょうど医師の原稿作成の調べ物をしていて迷い込んだ文に、江戸時代(18世紀半ば)の哲学者三浦梅園に関するエッセイ「役に立つもの立たないもの」がある。なぜ三浦梅園か?これから書く医師原稿の家系が江戸から続く医師の家で、そのご先祖さまが三浦梅園氏を師にしていた史実があったからだ。三浦梅園は哲学者兼医者だった。梅園氏の勉強のために読んだ岩田憲明氏という方が書いた哲学エッセイがおもしろかった。
岩田氏は幼少期から「私たちを含めた世界そのものは何のためにあるのか?」と問うてきた。しかしこれは答えが出ない。結局、自分が「よい」とか「したい」と思うことに「世の中のため」といった目的をつけているにすぎない、牽強付会(けんきょうふかい=自分に都合のよいこじつけ)ではないかと思い至ったという。
すると、役に立つか立たないかというのも意味がないと思い至った。良かれと思ってやったこと、例えば戦前の日本が正義の名の下に大陸に進出したが、それは結局他国への侵略にすぎなかった。あるいは良き生活を求めて一生懸命勉強した挙げ句、うつ病になってしまったとか知的犯罪を走ったとか、買ったけれど1度きりしか使わなかった布団乾燥機やダイエット器具ジョウバとか、役に立つはずが立たなかったことはいっぱいある。
だから、自分を「役に立つ人」と思いこむのは、この世の常識を帆にして飛ぶようなものであって、あたかも釈迦の掌のうえで飛び回る孫悟空であるという。
では人はどう生きればいいのか?常識に従って物事をすれば、人々はいたずらに迷うことなく、また混乱せずに生活を営めるからいいではないか。役に立つように頑張るのが悪いことだっていうのか?
そこで三浦梅園の哲学の出発点に立ち戻っていく。
常識、つまり常なるものに慣れ過ぎてしまうと、常ならざるものに対して無防備になる。常であると思ったものが実はもはや常でないことが見えなくなる。見える目を持ちなさいと。どのように?
それは「問うこと」である。我思う故に我あり、あのパスカルと一緒である。問いかけをせよ、自分のやっていることは本当に役に立つのか?と。
その問いかけをする視点が興味深い。当時すでに地球が球体だと知っていた三浦梅園は「地球が丸い」ところから出発せよというのだ。
彼が作った世界観を表すマンダラ図、「玄語図」である。特徴は丸く、上も下もなく、「天は尊く地は卑し」もない。人間世界に上下関係や天と地があるとすれば、それは考えを固定化し、自分を縛り、狭い常識を信じることになる。小さな役に立つに甘んじることになる。球体の地に住む世界観を持てば、その常識、その縛りから逃れられると。丸いゆえにすべてはつながり、それが自然である。素晴らしき哲学です。
さて、広げた話は牽強付会しないとならない。LINEスタンプの効用は哲学的思想につながった(かな?)。SNSを通じて地球コミュニケーションに思いをはせた(ということにしておこう)。
しかしLINEもいいけれどしょせんはLINEという会社の掌の上での遊びである。ほどほどにして、もっと丸い広い世界に出てみよう。常識も非常識も達観して、没頭できることをしてみたらどうだろう。しかし、もしもお時間があれば、我が自作「ジョニーとレオンとこわい女3」で検索してやってください。買わぬでもよいが奇特な方はどうぞ募金を(^^)。
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