愛と正義と冒険の文学

ドイツ文学者高橋健二に『人間の生き方 ゲーテ ヘッセ ケストナーと共に』(郁文堂 1990年)がある。本書の半分以上がゲーテ、ヘッセ、グリム兄弟に割かれており、僕は彼ら文豪をよく知らないからそこは読み飛ばした。どうもすみません。読みたかったのはケストナーである。

ところが高橋健二の最後の著作で寄稿を集めた本書は、思いのほかケストナーの記述が少なくてがっかりした。とはいえ後半には光がさしこんできた。

中でもまぶしいのは『遊ぶ本能』というエッセイです。1986年、東京で開かれた「子どもの本世界大会」でのミヒャエル•エンデの講演について高橋健二はこう書く。

さすがに、評判高い『モモ』や『はてしない物語』の作者だと、うなずかれた。「すべての人間の中には子どもが隠れていて、それが遊ぼうとする」というのがその主旨である。(同書)

その講演を読んでみたい。探してみると朝日ジャーナル(1986年9月12日号)に収録されているという。国会図書館で医師インタビューの資料収集のついでにコピーをとった。それをまとめていこう。

【子供が願っていること】

驚かれるかもしれませんが、私は子供のための特別な文学があるという考えには根本的に反対です。(同誌)

子どもの本世界大会の講演なのにこんな出だしなのですよ。エンデいわく、児童文学は子どもの欲求から生まれたわけではなく、子どもの保護区をつくるためのものでもない。大人がつくったものである。なぜつくったのか?

その問いに答える前に、子どもが物心のついた時分になると、大人は「客観的事実」と称される知識でうめつくそうとするとを指摘する。たとえば太陽とは核反応によって放射されるガスであり、空から子供にほほ笑みかけるお日様ではない。サンタクロースもいなければ、子供を運ぶコウノトリもいない、すべては絵空事であるという客観的な種明かしである。この裏切られる体験が「大人になること」だとして、子どもの願いは別にあるとエンデはいう。

だが、本当は子供は大人と一緒に一つの同じ世界に住みたがっていると私は思います。彼らも(大人の世界に)参加したいのです。(中略)子供の側からの大人から孤立したい、別になりたいという努力は、実は失望とあきらめのシグナルなのです。(同誌)

では「良い子供の本」とはなんだろうか?

よい子供の本の基準は、教育的ということでも社会的ということでもなく、芸術的であることです。(同誌)

人間の全体性、つまり頭、心、感覚のすべてから生まれたものであり、その語りかける力があるものだという。ところが芸術的であるものはどんどん消えていくのが現代の子どもの本をめぐる状況であるとエンデはいう。

【どうやって子供の本はできたのか?】

さて、児童文学が誕生したのは、ヨーロッパで封建主義を排除する時代からである。客観的な自然科学と産業革命社会がはびこってくると、人の世界観から抽象的なものをどんどん排除されていった。

自我も、自由、責任、愛、想像力、ユーモア、人間としての尊厳も実際のところ、脳と神経系統の自動的に作動する電気化学的プロセスの産物に他ならないということになります。(同誌)

人は自分の個性まで消し去り、非人間的世界の構成要素であると考えだした。大量生産の歯車となったばかりか、やがてナチスは強制収容所で人体実験をし、広島長崎に原爆を投下した。それは人がたんなるパーツであるという考えからきている。

【愛はスイッチを切れない】

さらに客観的、科学的世界観に基づく教育は、子供の魂を殺し、息を詰まらせるとエンデはいう。

「お母さんがお前を愛し、お前がお母さんを愛するのは、私たちの脳の電気化学的プロセスなんだよ。もし適切な電源を頭に差し込んでスイッチを切ったり入りたりすれば、たちまち変わるんだ」(同誌)

それが子供から芸術的なものをどんどん遠ざけてきた。ほんとうはポエジー(詩や文学)こそ、食べ物や飲み物と同じく根本的に必要なものなのに、とエンデはいう。

子供が住めないような世界というのは、結局のところは大人にも住めない世界だと私は考えています。(中略)なぜならばポエジーこそは人間が世界の中で自己を、また自己の中で世界を体験し再認識できるクリエイティブな力なのですから。(同誌)

大切なのはポエジー、文学ですよ!

ケストナーは『飛ぶ教室』で「子どもの涙は大人の涙より小さくなく、大人よりも重いことだってある」と書いた。「極上のお菓子のこね粉のような、子どもを楽しませる(児童)本」をニセモノと断じた。だからこそ「みなさんの子どもの頃のことを決して忘れないように!」というのだ。

そういえば、国会図書館で調べものをした対象の医師が、はなしのついでに高田純次のことを話していた。いいかげんをモットーにするタレントは、年をとったらしちゃいけないことを三つあげていた。

「説教する•昔話をする•自慢話をする」

なあるほど、客観的な大人がしそうなことですね。高田さんのいいがけんをまねて、ケストナーとエンデを足して、僕は「愛と正義と冒険の文学を書く」をモットーにしたい。今夜は以上です。

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