カーリンヘンとはなんだろう?

原稿が一段落したので『飛ぶ教室』を筆写修行している。

エーリッヒ•ケストナーの少年少女文学の傑作。敬意を評して2つの「まえがき」と「第1章」まで写した。手書きで書き写すと、文章の構成や言い回し、リズムが会得できるだけでなく、“秘密”までわかってくる。

物語の舞台となる寄宿舎学校の日常を書いた「第1章」の秘密はなんだろう。

この作品の主人公の五人の子どもたちの生まれや育ち、個性を忍ばせるエピソード(マチウスの大食い、ウリーの臆病ぶり、マルチンのリーダーシップなど)が散りばめられ、さらに物語の展開の伏線(無謀な行動、正義、ケンカ、そして劇など)が挿入されている。筆写して初めてわかった「こうやって書いているのか!」という気づきが楽しい。たいへん勉強になりました。

前後するが「まえがき」にも秘密がいっぱいある。それを全部書くと論文になってしまうので、ひとつ気になったくだりを紹介しよう。以下その部分です。

さて私は二週間このかた、ツークシュピッツェ山のふもとのこい緑いろの大きな湖のほとりで暮らしています。泳いだり、体操をしたり、テニスをしたり、あるいはカーリンヘンにボートをこいでもらったりする時のほかは、ひろい草はらのまんなかの小さい木のベンチにこしかけています。前には、たえずぐらぐらする机があります。そこで私はクリスマス物語を書いています。(『飛ぶ教室』岩波書店 高橋健二訳)

カーリンヘンとはなんだろう?一読二読しても飛ばして読んでいたが、こうして書写ししていると気になった。ぐぐってみると答えがあった。ある秀れたレビュアーがちゃんと謎を解いていてくれた。

その人、ケストナーを知り尽くすレビュアーは、新潮文庫訳で本書を読むと、このくだりが「カールの店のボートで沖にでたり」となっていて、心臓が止まりそうになったという。日本語のどの訳書にも語注がないが、カーリンヘンとは、実はケストナーの当時の愛人の名前であるという(本名はカーラ•ギール)。だからテニスの相手もして、ボートもこいでくれたのだ!なんとうらやましいかぎりだ!

作家の文にはこうした裏話がつきものだが、さらにこのレビュアーは、丘沢静也氏訳の『飛ぶ教室』(光文社刊)にある記述も紹介している。訳者の丘沢氏のあとがきには、「ケストナーの児童文学の文章は“猫なで声”である」と書かれているという。猫がニャーニャーいうように、少年少女に寄り添うようにやってきて、甘える文である。それは食いつきやすくさせて読ませようという魂胆があると。

なぜ猫なで声なのか?考えていくと、なるほど!と合点がいった。

ケストナーが初めて児童文学を書いたのは1928年である(『エーミールと探偵たち』)。それまでのケストナーは過激な詩や評論で社会正義を訴える人として知られた。それがなぜ児童文学に転向したかといえば、正義が書けなくなってきたからだ。

1925年、ヒトラーがナチス党を結党して以来、言論の自由に厚い雲がかかった。30年代にナチスが独裁政権を樹立すると、思想弾圧は激しくなり、ケストナーの本も焚書にあった。その渦中で書かれたのが『飛ぶ教室』である。書きたいが書けない、ナチス批判を匂わすだけで逮捕される。しかもケストナーはユダヤ人ハーフでもある。それがナチスに見破られたらおおごとだった。

だからこの作品には「子どもたちだって大人より悲しいことがある、子どもたちの涙は大人より重い」という文がある。だから「みんなでがんばろー!」という教室の子どもたちが、いわば<絵空事>のように描かれた。そこで見逃せないことがある。

子どもたちは、ただみんなで清く正しくがんばるだけなのだ。親や学校や社会に抵抗して勝ち取るという、ほんとうの意味での自立が描かれていないのだ。なぜならそれは書けなかったからだ。書けばナチスにとっつかまって、身も本も焼かれてしまうからだ。だがケストナーは書こうとした。書くことをやめなかった。

だから自立のない物語でもよかったのだ。書けなかった、ということを読者が大人になって理解して、その現実の過酷さを忘れないようにすればいいのだから。

このあたりの背景話は、ケストナーの評伝『ケストナー ナチスに抵抗し続けた作家』(クラウス•ゴードン)でも学んだが、このレビュアーのおかげで、点と点だった知識がぐっとつながった。どうもありがとう。

もしも僕が学生時代にケストナーを知っていたら卒論はケストナーだった。それほど今、耽読している。そう思ってからしばらくして、それは出来ない相談だとわかった。なにしろ僕は英米文学科だったのだ!ドイツ文学科でもなく、ドイツ語だって全然知らない。グーテンターク!(笑)どうかしているが、ケストナー論文が書けるくらい、もっと研究したい。

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