母の仕事

ケストナーの『わたしが子どもだったころ』(岩波書店 1962年)を読んでいて、母の仕事を想った。

「子どもと子どもでないひとたち」に向けて書いたエーリッヒ•ケストナーの作品を何冊か読んでいる。そのうちの1冊の本書は、ケストナー自身の少年時代の自叙伝で、語りかけ調の文体は、高橋健二氏の翻訳による魅力もでかいが、リアルで夢心地でしかも刺さってくる。こういう文を書きたいものだ。

読み進めていると、紹介したい話があった。

エーリッヒ家は貧しい家庭であった。夫の少ない稼ぎを補うために部屋を貸したり、妻は内職もしたが、ある日思い立って「髪結い」になることにした。一人息子の教育費を稼ぐためにである。母は強しありがたし。ほどなく髪結いの免状を取って自宅で開業した。腕は良いし愛想もいい。おまけに近所には商人や職人の仲間がいっぱいいた。料金も安いとあってお客さんがどっときた。上得意や冠婚葬祭ではしっかり儲けたのだが、中にはみすぼらしい人もいた。

その女性はイェーニヒェン嬢といって、居酒屋の2階に一人で質素に暮らしていた。仕事は行商である。でっかい籠を背負って田舎を歩く。籠にはボタンやリボン、安全ピン、靴紐、砥石、縫い糸や系とや針、ナイフや鉛筆などが詰まっている。農家のベルを鳴らして「いらんかな」というわけだ。日本でいえば千葉の野菜売りみたいなもんだろうか。彼女は生まれつきのせむしだった。手も足も、いやからだ全体がどこもかしこもねじ曲がっていた。だから自分で髪を結うことができなかったのだ。そんな体だから、せめて髪を綺麗にして客を訪ねたいというのだ。

エーリッヒの母は少年を連れて、朝5時過ぎにイェーニヒェン嬢の家に出張して髪を結うことにした。終わると、商品の入った重い籠を彼女の背に背負わせてやる。イェーニヒェン嬢はよっこらしょと、長さの違う松葉杖をついて立ち上がって、朝6時に田舎行きの列車が出る駅に向かうのである。

この話を読んで、犬の髪結いをしていた我が母を思い出した。

近所のペットショップで何年もタダ働きの“修行”をしたのち、JKC(ジャパンケンネルクラブ)でトリマーの免状をもらった。自宅で開業して、愛想よくして安くすると、いろんな犬がやってきた。ヨークシャー、プードル、マルチーズ、ポメラニアン、ダックスフント•••。風呂場は戦場である。台の上で動かないように犬に命じてカットである。ちょきちょきだけでなく、プードルはバリカンを当てる。まるで植木みたいに丸くさせられるのを喜んでいるのだろうか。そのあとは洗浄工程だ。ゴシゴシ洗うと毛がしょぼんとしてどの犬も痩せこけてしまう。でっかいドライヤーでゴワーっと乾かすのだが、風量がすごくて、ちっちゃい犬はあれで飛びそうになる。動作音も映画『地獄の黙示録』のヘリコプター音のようにうるさかった。

仕上げはペニキュアやリボンをつける。するとどのワンコも見違えるようになった。綺麗になったワンコはうれしそうだった。

もっとうれしがったのは飼い主さんである。綺麗になったねーっと、飼い主がお出迎えすることがほとんどだったが、中にはキャリーバッグで「引き取り」と「配達」もした。僕も配達をして近所の家に犬を届けたことがあった。せむしの女のようにチリンと、いやピンポンである。

エーリッヒ少年の家とちがって、うちは当時はそれほど貧乏ではなくて、母は生計を立てるより「生きがい」で犬の髪結いをやっていた。犬が好きでたくさん飼ってたし、ブリーダーまでしていたからだ。ちょうど昨日、押入れを整理していたら出てきた写真がある。飼っていたルン、アリィ、マーサ、もう一匹の名前が思い出せない。ご丁寧に母は写真を袋に包んだのでビニールのシワが見えるのはご勘弁ください。

なんにせよ母の手仕事というのはキュンとくる。父の仕事のように経済規模もなく組織的でもない。しかし誰かの幸せがあり、よろこびが見える。近所の手仕事からそこに暮らす人びとが見える。労働対価のウラにある社会の諸問題も透けて見える。母の仕事には効率とか大量生産とかがあまりないせいもあるだろう。純粋労働というか感謝のある仕事だったなと思う。

いや父の仕事にも本来はそれがある。ところが、腕の立つ皮職人のエーリッヒ家の父の話であるが、彼は丁寧にやりすぎるゆえに儲からず赤字続きだった。それで仕方なく工場勤めをしていたのだ。だが生きがいは、帰宅してから台所の隅や地下室でやる皮の仕事だった。近所の人から持ち込まれた古びた皮製品をみちがえるように綺麗にするのだ。父は生き生きとやっていた。人間本来の仕事はそういうものだと、今日の休日に思う。

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