読書は人生を変える力がある。よく「生涯の一冊」に出会えるかというが、それを正確に言えば、生涯の一冊だと「実感」できる瞬間をもてることなのだ。
そんな読書になりそうな瞬間を得た。フランスの喜劇作家マルセル•パニョルの『ファニー』である。ある医師が大病を患って手術を待つ間に、心を落ち着かせるためパニョルの人情喜劇を手にしたというのを知った。たぶんこの作品だろうと目星をつけた。医師は「原書」だというが、仏一の単位を落とした僕は、昭和37年、1962年発行の永戸俊雄氏の翻訳本を図書館の書庫から引きづり出してもらって借りてきた。1930年代に一世を風靡した他愛ない喜劇を、「フランスの寅さん」という日本人もいる。
本書にはたとえばこんな小話がある。
病気で瀕死の老人の男(パニス)が、死ぬ間際に神父に告白をする。神父がこの際、すべて吐き出しなさいと言うと、パニスは雇っていた女工に手を出した、他にもあの女にも手を出したと、次々と遍歴を語り出す。神父は驚いて「お前の罪は長く続いたのかね?」と訊くと、パニスは「5分か6分かだよ」と言う。神父は首を振って「何ヶ月関係が続いたかときいとるんだ」…とまあこんな具合でゲラゲラ笑える。押して引いての恋を軸に、おかしな人物たちがからみあう、3つの人情喜劇をひとつにした作品である。
車寅次郎、恋して恋に破れ、さすらう話とたしかに似ている。だが日本の喜劇ではなく、フランス喜劇なのである。恋に命を賭け、容赦しないフランス人だからこそおもしろい。ファニーと恋がうまくいかない息子マリウスの後をつけて、恋の修羅場に乗り込んでゆく親父セザール、どいつもこいつもバカだなあ…と思いながら3分の2くらいまで読んでいるとー
あ!と思った。彼らは人生を楽しんでいるのだ。それが刺さってきた。
自分にはそれがなかった。小さい頃から何かを求めてずっとうろうろしてきた。探し求めてあちこち歩いて疲弊してきた。恋しなくちゃと恋していない相手を選んでは潰れた。ハスに構えた演技をしながら、実は会社のために粉骨砕身してきた。世間的栄光なんてと口では言いつつ、実はそれを求めてきた。人生とはどう生きるか「意味」ばかり問うてきた。肩や肘にものすごく力が入っていたのだ。
すべて間違っていた。人生は楽しむのだ。それが身体中を突き抜ける実感となってやってきた。この、シンプルな単純なことが、探し求めていた答えだった。
すると、最近読んだ読書も深くわかった。渡辺京二氏の『逝きし世の面影』では江戸の人々が人生を楽しむ姿が描かれる。心の底にはニヒリズムや侍なんのそのという諦めがあり、だからこそ命がけで生を楽しもう、命果てるときはイサギよく逝こうとあっけらかんなのである。江戸人の人生態度を書いた渡辺京二氏の狙いがもっと深くわかった。
書く上での視座にも影響があるだろう。拙著『家族医』では、心の病の原因とそこからいかになおっていくかを書いた。心療内科医の小松先生は、森田療法の高良興生院の入院患者を見て、「心の病になる人は東大が多い」と言って笑っていた。頭のいい人が自分をとっちめてしまって病気になる。つまり、どういう人生態度を持てるか、行き着くところはそこなのだ。自分の視座を持てたとき、他人の心や態度の意味が深く理解できるようになる。その人がどういう人生態度なのかというところから、その人を書くことができる。次の本では、その視点を入れて人間を書かないといけない。
人生を楽しむことが板につけば、きっと恋もうまくいく。さらばこれまでの自分。
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