自分に向かう冒険と社会に向かう冒険

小説や映画の中の絵空事をのぞけば、冒険には2つの種類がある。自分に向かう冒険と社会に向かう冒険である。

再来月号のドクターの肖像を書き出そうとしている。これがまた凄腕の外科医であるが、その成長の原点は“押しかけ”留学にあった。向かったところはオーストラリアのメルボルンである。

メルボルンはどんな街か。ぼくはたった一度、オンボロの中古車でオーストラリアを時計回りで一周する旅の途中、2泊ほどしたことがある。古い街並みを残した美しい建物、青い空、洒落たお店というくらいの記憶がある。振り返って青春の一ページのなかのそれも数行、それ以上の感想が引き出せない。長く滞在していた亜熱帯のブリスベンと比較すれば「肌寒い」という印象もあった。

むしろ「メーボルン」を思い出した。

祖父がなんやかんや国際派で、彼から小学校時代に英語のイロハというかABCを習った。発音に気をつけなさい。メルボルンではありません、メーボルンです。そうそう、シドニーもシドニーではありません、シッドニィーです、とのたまわった。

祖父に感化されたのもオートラリアへ放浪する原因であったが、ぼくの旅は「自分に向かう旅」、すなわち自分探しだった。結果的には探しきれず、ずっと後年になって思い当たった。自分探しは「外に出ず、内に出よ」であった。自分は自分の中にしかない。いくら外に出ても見つからないのだ。

その凄腕の医師は30代半ばで留学を決意した。さすがにその年だから冒険の目的はハッキリしていた。自分がやりたいある医療技術の習得である。社会ニーズのある冒険だったから、外の世界へ、一流の医療機関に向かうのは当然であった。

だがおそらく彼のなかにも「自分に向かう冒険」というイメージもあっただろう。ただそれは「自分探しの冒険」ではなく「自分確認の冒険」とでもいおうか。自分がやろう、やりたいと思っていることに、自分がどれほど続けられるか、耐えられるか、めげないか。そういう冒険であったような気がする。

青年よ、旅をせよ、ただしなんらかの決意をしてから。そして英語も学べ、メルボルンではなくメーボルンだからね。英語が世界への扉である。

ではそろそろ原稿の旅へー

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