『病いの語り』から潔さを学ぶ。

医療本でここまで感動した本はなかった。『病いの語り』by アーサー•クラインマン。

臨床人類学者で精神科医であるクラインマン氏が、サバティカル•リーブ(研究休暇)をとった1986年から87年に書かれた不朽の名著である。「慢性の病をめぐる臨床人類学」という日本版サブタイトルがついているが、この本を教えてくれた医師にならって、「医療人類学」というのがふさわしい。

病気を3つに分けるのがまず印象的である。患者を生物学的に捉える疾患(disese)、患者の人生から捉える病い(illness)、そして社会的に捉える病気(sickness)。たいていの病院では「疾患」でしか診ないが、患者の語りから「病い」を理解し、「病気」として普遍化するところに、この学問の価値がある。

僕が惹かれたのは記録された患者の語りであり、その中でもとりわけ2人の語りである。1人はある終末期の患者である。パディ•エスポジストは30歳で、小さな病院で臨死患者のカウンセラーである。彼は若い頃、忘れがたい失敗を犯した。てんかんをもつ姉が路上で発作を起こしたとき、恥ずかしくて逃げだした。だが臨死患者カウンセラーとなることで失敗を挽回し、死の間際まで慈善事業に寄付をして、自分の葬儀費用さえ残さなかった。パディは病いのおかげで自分の道を発見したと語った。

もう1人はやはりある終末期の患者である。ゴードン•スチュアートは33歳で、執筆家であった。直腸がんとその前進への転移で最期を迎えようとするとき、病院ではなく、自宅を選んだ。通ってくれるのが家庭医のハドリー•エリオットである(エリオット医師を通じて、クラインマン氏はゴードン氏の語りを知った)。ゴードンは医師にこういう。

ぼくはいつも人生の大問題に対してはまず逃げ出し、エネルギーを使い尽くしてしまってから、やっとそれらについて考えるというやり方で処理していました。今は逃げ出すことができません。

医師が「テープを止めた方がいいですか?」と訊くと「いや、何か残せるような気がします」とゴードンは言って話し続けた。

死は最終的な停止です。人間はこの世にやってきて、とてつもない長い時間をかけて成長し、そして去ってゆくのです。こういう循環が続くのです。われわれがもがいたり、悩んだりすることには何か目的があるはずです。ぼくの人生、ぼくの病い、ぼくの死は、どんな目的だったのでしょう。死はおそらく人生の意味なのでしょう。自分の死という現実から人生を考えるときにはじめて、究極的にはそういう関係なのだとはっきり理解するのです。

この面談の10日後、ゴードンは息を引き取った。クラインマン氏はこの二つの「穏やかに死を迎える」症例は例外的であると書くが、だからこそ心にしみる。

ふと、先日死去したアナウンサーの有賀さつきさんの潔さがしのばれた。誰にも病いの苦痛を告げず、仕事もきちんと手仕舞いして、預金口座も整理して、1人で去っていったという。看取れなかった老父は嘆きながらも、幼少時の米国のパブリックスクールで学んだ強さがあったと語った。そして、3年前に死去した「妻もそうだが風と共に去りぬ。この風は追い風ではなく、向かい風だった」と言った。

こんな穏やかにさっぱりと潔く死んでいけるだろうか。それは、潔く生きているからできるのではないか。せめて潔い生き様の人の荼毘の煙にあたりたいものだ。

手書きでパディとゴードンのくだりを書き写していると、猫が邪魔しにきた。いつものことだが。

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