苦痛は私をからっぽにする

なかなか原稿が捗らない。参考文献のアーサー•クラインマンの名著『病いの語り』を開く。そこに米国詩人エミリー•ディキンソンの詩が引用されている。痛みに関する詩である。原文と我が拙訳をあげよう。

Pain Has An Element Of Blank

Pain has an element of blank;
It cannot recollect
When it began, or if there were
A day when it was not.

It has no future but itself,
Its infinite realms contain
Its past, enlightened to perceive
New periods of pain.

Emily Dickinson

苦痛は私をからっぽにする

苦痛は私をからっぽにする
いつ始まったのか
苦痛のない日があったのか
思い出せない

先には苦痛だけがある
止むことのない苦痛が
過去をむしばみ 次にくる痛みの
知らせが 私を疼かせる

エミリ-・ディキンソン

詩人は生来の引きこもりで、その鬱屈した日々を謳ったのだが、腎臓病で死去したと言われており生理的な痛みもあったのだろう。

慢性病は「その人の生きられた経験」とクラインマンは言う。著書には痛みのせいで職を変え、家庭も壊し、人生を変えねばならなかった症例があげられる。整形外科も脳神経外科も神経内科も疼痛科も理学療法も鍼灸も催眠療法も、どんなことも改善には結びつかなかった。最後にたどり着いたのが精神科医のクラインマンで、そこで自由に病いを語ることによって、患者の母親との疎外が原因にあることがわかってくる。つまり、痛みは人生の中にあるのだ。人生を理解することで病いが癒されるのだ。

クラインマンのこの指摘は1970年代であるが、その後20年から30年ほど経って痛みには心理的なものがあることが実証されてきた。うつや引きこもりという現象の向こう側にある人生で起きてきたこと、感じてきたことである。そう考えると、現在のペインクリニックや頭痛外来という慢性痛の対症療法が特効薬になりきれない理由もわかる。

患者は、いや人間は、誰しも慢性の痛みを持つ存在である。それを治すということはどんなことなのか?それを原点にすればもっと原稿が良くなると思う。

さて、痛みといえば、したたかに頭を打った。

近所の踏切設備にある看板というのか。鉄の角に頭をブツけて血が滲んだ。瘤もできた。おかげで床屋に行くのを延期した。これが目下の私の慢性痛である。


写真の人より私は背が高い。「とまれ」ば良かったのだが…。

*******************

追伸 書いた後に「そうだ!」と閃いた。人の痛みから書けばいいのだ。その医師は学問的な探求だけでなく、自分の受け持ちの患者だけでもなく、もっと大きな視点から社会の痛みを癒そうとしてきた。それを書けばいい。これで原稿が良くなりそうだ。ブログは思考をまとめる効用がある。

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