増えるワカメのように、大きな器の人を書く

文を書くということは書き手の人間としての成長段階や成熟段階を表す。稚い人なら稚拙な文になるし、成熟した人なら老成な文になる。結局どんな人も、今書けることしか書けないのである。

大きな人を書こうとするとき、それを思い知らされる。

人のことを真剣に書いた経験のある人ならわかってもらえるが、対象が大きければ大きいほど飲み込まれてしまい、畏れいって奉るような文になったり、臆してツッコミがない文になることがある。僕も過去に何度かそんな失敗もしたが、こっちもいい年なので、そうそう飲み込まれることはない。人工細胞の大御所にも、諸事情で文はお粗末になったが、飲み込まれることはなかった。今書こうとしている人も、日本の医療界を動かしてきた大物であるが、飲み込まれてはいない…

と思っているが、水が胸を超えて、首まで浸かり、口元まできた…(^^;)

どう書こうかと立ち向かおうと、そこに大きな壁が立ちふさがり、その人の深い懐が見える。果たしてこんな自分に書ける人なのか、そもそも書いていいのか、文の神様から難宿題を突きつけられた気分である。

まあそれがわかるだけ自分は進歩をしてきたとは思う。おちょこくらいの器にはなってきたのだと思う。自分の器が小さくても、真髄さえすくって読者の器に移せばいいのである。そう思ったとき、詩人ブラウニングの歌詞に良い言葉があった。

「地上では欠けた弧、天上では全き円」
 (英国詩人ロバート・ブラウニング『アブト・ヴォーグラー』)

生きている間にアークを完成させようとして小さな円を描くのではなく、できるだけ大きな円を描きなさい。たとえそれが欠けた弧であっても、引き継ぐ人がやがて大きな円にしてくれる。数世代にわたるようなスケールで仕事をしなさい、という意味である。

文とは読者を動かすことである。小さな器であっても、真髄を注ぎ入れて読者に飲ませよう。読者の器の中で、真髄が「増えるワカメ」のように大きくなればいいのである。

今朝は朝焼けがビューティフルでした。

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