新年の誓いに水を差すわけじゃない。だが「目標」は持つべきなのだろうか?
書いた文の復習で、精神分析学者カレン•ホーナイの全集を少しずつ読んでいる。精神病とは、「理想化された自己」を追い求めて、もともとの資質である「真の自己」を捨ててしまって、偽りの自己を現実化しようとして心が引き裂かれてしまうものとホーナイはいう。
己の苦痛に終止符を打ってくれるはずの蜃気楼(栄光)はそれ自体が想像の産物なのである。(『神経症と人間の成長』)
そこにさまざまな物語がある。たとえば大世界を求めて自由に生きようとして川を下る『トムソーヤーの冒険』や『ハックルベリーフィンの冒険』である。『車輪の下』では才能にあふれるハンスが、神童として人々の期待に応えるのをやめてしまう。清く正しく生きたいのに汚れた世の中に嫌気がさすホールデン•コパーフィールドの『ライ麦畑でつかまえて』もある。おのれを探すために世界を旅してさまよう『ペールギュント』は象徴的である。殺すべきじゃないとわかりつつ老婆を殺害するラスコーリニコフの『罪と罰』、夏目漱石の三四郎の苦悩も下村湖人の次郎物語も、みんな似た「求める」物語がある。
そこでふと思うのは「目標を持つべきか」である。
目標をもつ、それは今の自分を変えて、理想的な自己をつくろうとすることだ。ヒーローやヒロインになろうとすることだ。だがみんながみんな、なれない。挫折があり、再挑戦があり、苦闘があり、路線の変更がある。小さな満足や不満足もある。
傷つくのはイヤだから“他力本願”でいく人もいる。
他力本願とは他人の力を得てということだが、具体的にいえば、会社に入ることである。会社の目標を自分の目標とすることである。その傘の下が窮屈ならば辞める。窮屈でないならとどまる。転職支援会社は自分探しを手伝う人生のガイド事業であるが、あくまで「他力探し」である。だから目標は組織が持つべきもので、個人は日々楽しくあればいい、という言い方もできる。目標などもつと、出社拒否も増えてしまうのだから。
しかし他力の中に、自力を見つけることもある。
医師の世界でいえば「外科医にならない」「留学しない」若者たち。それを嘆くのは「目標をもって成功した教授たち」である。研修医は成功者に言われてもねーと思い、教授はアレコレ言わず行ってこいと勧める。海外で「おれの目標はこれだ!」と見つけて成長する。そうだとすると、他力と自力はウラオモテとも言える。
ふと職人と芸術家というところにも、その対比がありそうだと思う。
職人は伝統を受け継ぐためひたすら修練する。目標はしっかり受け継ぐことであるが、漫然とやっていては体得できない。伝統の上に自分流を少し付け足していく。それは芸術家が求める、殻を破る衝動に似たものかもしれない。とするなら、すでにそこにある他力の目標を、自力の目標に変えてゆく現実的なアプローチが職人技であり、誰に学ぼうともせずに使命を探し求めてさまよい、ほとんどがたおれていくのが(笑)芸術家でもある。
では目標は不要なのか?といえばもちろん必要である。人は目標をもつことで生き延びてきた動物であり、目標がなければ淀んで死滅する。目標の持ち方はさまざまであっても必要である、と言うべきだが…
そこに、「無重力の人」もいる。
目標らしい目標をもたず、すらすらとやり遂げる人である。引きこもりで教科書を一度まったく開かずに、しかし高校トップの成績を取り、国立大学にも苦労なく入ってしまう。その母は特に野心もなく、訓練もなく、しかしすらすらと小説を書いて入選してしまう。生い立ちには抑圧されたものはある。恨み、苦情、不平を一切抑えてきた。彼らはどのように引き裂かれているのか?何が引き裂かれているのか?はっきりとはわからないが、そんな彼女とその子には、他力でも自力でもない力が働いているように見える。あえていえば「無重力の中に生きている」。傷つかないように、何も当たらないように、生きているようにも見える。
そんなことを考えていくと、目標を持つことはけっこう困難なのであると思い当たる。だからこそ「支えるもの」が必要なのである。
すぐにめげて、たおれそうになる目標という看板を支えるつっかい棒である。それが何かはわかっている。あえて単語は書かないが、それは目標というよりも基盤である。土台である。大地である。しっかりとそれがあるから、人はちゃんと立てるのである。
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