日曜日の午後、へとへとになって寝た。井上雄彦の漫画『スラムダンク』で激戦の疲労の果てに、5人が眠ったロッカーシーンと似ている。
こっちは猫と私、二匹だけだ。激戦とは原稿との格闘である。入稿するとやんわりとコメントが返ってきた。コメントの少なさから、どうやら初稿がひどいらしい。書いた本人(私)はそう思っていないが、よく読むとつまらない。つらつらと情景が書いているだけだ。飛翔もなければ創造もない。ご指摘の通りだと思った。そうなったのは別の人のせいだ。別の原稿で改悪が続いてきた(続いている)せいで、おかしくなっている。先日読みきった『友情』にこういうくだりがある。
寛容にならないといかん奴もおるんです。例えば、クリエイティブなポジションの奴に対しては、寛容でないといかんね。クリエイティブな仕事って、我慢してできることじゃないんですよ。想像力働かせて自由な領域を増やしてやらなかったら、うまくいかないところがある。
亡くなったラガーマン、平尾誠二氏の言葉である。さすがええこと言うね。
少しでも創造せんとする、すべての書き手は同じ気持ちである。ライターを潰すなんてホントかんたんだ。陳腐な考えを押し付けてライティングの自由を損なえばいい。何も生まれなくなる。ほとんどのライターはそれで火がフッと消える。強いライター、それを作家というが、家があるからちっとやそっとでは火が消えないのだ。
ちくしょう、消されてたまるか。
それで、後の方の原稿だが、飛翔体にした。ジャンプした。すごく良くなった。ほうら、これでどうだ!その代わり疲れ果てて、日曜日の午後に寝ちまったわけだ。だがこの原稿も変わるとすると、切ない。
真の指導とは「意見を押しつけて自由を奪う」ことではない。ほとんどの子供はアホな親や教育の根本を知らない教師からこれをされて才能を潰す。「あなたの歌が聴きたい」「君の絵が好きだ」「将棋、強いね」と言えばいいのだ。自由にさせよ、されば良いものを生み出せる。以上。
追伸。12月12日、深夜、私もモヤハ発狂寸前だが、猫のピノ子が先におかしくなってきた。時間との勝負のようだ。
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