しばらく前に読了した日野原重明氏の『生きることの質』についてもう一度書いておこう。
私は読み手の成長や成熟度、経験によって再読する度に異なる価値を持つ本が優れていると考えるが、これはその一冊である。
彼の言葉を噛みしめることができる年齢にはなった。奢った言い方になるといけないが、人の奥を知ることが前よりよくできるようになった。とりわけこの一年で「ドクターの肖像」で描く医師のことが一段深くわかってきた。一方、よくブレる人間なので、日野原氏が書く「エゴ」が出ることもしばしばある。それを心の鞘(さや)にきゅっと押し込むことも少しずつできるようになった。すなわち本書を「徳のある人の言葉」としてただ崇めるのではなく、自分に映して読めることが大切なのである。読書とは心の成熟度の目盛りを示す。
まあ初読なので、感想は10年後の再読時にとっておくことにして、後半で一番気になった部分を引用しよう。
さて人間の生き方に触れてみましょう。人間は宿命的に自己愛を持っています。でも簡単に他人を批判しますが、自分のことは鏡に映らないので自分にを厳しく批判せず、やたらに人を裁きます。それでは良い人間関係が生まれません。人間はエゴ価値システムで生きるか、愛の価値システムで生きるかで、人間関係に差が生じます。
愛の価値システムとはまず赦すことです。次に耐えることです。エゴを持つ人間にとって人を赦すのは大変難しいことです。雪解けの春を待つ雪を積んだ竹の葉ように、耐え忍ぶとき、愛が現れます。怒りの人には良い人間関係を作る橋は見えません。
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」(コリント使徒への手紙)
ここ数ヶ月の私の問題意識がここに書かれている。
愛に生きるとは赦すこと。赦すとは何か。まず自分自身のそれまでの愛し方である。高ぶりや悪い作法、利益を求め、愛することを誇りあるいは妬む。そういう自分を責めるのではなく赦せるか。次に自分と愛する人との距離や位置関係である。どれも「自分が作り上げた幻想」に過ぎない。それを耐えることである。
自分の悪さも、相手との間も、いったんチャラにして「心の錘」を持つ。油断するとすぐに怒りに転化してしまう燃料を断つのである。自分の心に立つさざなみ、疑いを第三者的に見つめるのである。
こうしてみると医療者の本ではなく、宗教家か思想家の本にも見えてくるが、それでいい。今、自分の求めているままに読めばいい。今のところ私が得た読書感想を一行で書くとこうなる。「背筋が美しい人になりたい。そういう人を愛したい」。10年後はどういう感想になるだろうか。
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余談だが、文春の社長が「文庫は図書館に売るな」と言ったそうだが、本書(岩波現代文庫)は最初図書館で借りて、手元に置きたいから買った。そういう効果もあるし、文庫で1000円という定価にも改善余地がある。何より消耗品でなくポピュリズムでなく「残る本」を出せ、と言いたい。
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