私のように弱い人はすぐ「神様!」と助けを求めてしまうのだけど、神様はどこにいるんだろう。それは「動詞の中にいる」。
エーリッヒ•フロムの『愛するということ』で、神への愛という章がある。そこにはモーゼが神に詰問する逸話がある。有名な旧約聖書の一節である。
モーゼは神に言うー神の名前を言えなければ、自分が神の使いであることをヘブライ人は信じないだろう、と(偶像の本質はまさに名前をもつことにあるのだから、どうして偶像崇拝者が名前のない神を理解することができようか)。すると、神は譲歩した。神はモーゼに「私はありつつある」というのが私の名前だと告げる。
「私はありつつある」という訳出はなかなか言い得て妙である。
この元となっている英語は「I am who I am」である。 「わたしはあるという者だ」とでも直訳できるだろうか。ネットをちょっとぐぐると、「神の名は〝有る〟」「我は在りて有る者である」「わたしは、『わたしはある。』という者である。」「わたしは自分がなるところのものとなる。」などといろいろある。「わたしは〝ある〟という者である」がもっとも無難であるようだが、要するに神は「amにありて、amにいる」というのだ。
つまり神は「動詞の中にいる」ということである。
フロムも「ありつつある」とは神が有限ではなく、人間でも、存在でもないことを意味していると書く。私が考えるに、神様は「その人の中にいる」のではないか。「その人の思いの大きさ•深さにしたがって、存在もするし、消えもする」のではないだろうか。
そう考えれば「神様という動詞とは、自分の動詞のこと」でもある。
「神様は動詞の中にいて、それは自分の動詞でもある」とすれば、フロムが言う「愛する技術の修練」の意味がよくわかる。フロムは愛する技術を獲得するためには次の三つの要素が必要だという。
規律
集中
忍耐
生産的であれ、集中せよ、忍耐強くあれ。とどまることは澱みである。さもないと負の自分にとらわれて、人を疑う気持ちに襲われる。愛する人を信じよう。あなたの動詞を決めよう。それに従って動こう(生きよう)。
私の動詞は「書くこと」である。愛の苦難と冒険を書くことである。
今回でいったんフロムの「愛するということ」の感想は終わりにしたい。これからは実践である。
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と…終わりと思ったのだが、ここまで書いて寝たあとに、さらに考えついたことを書いておきたい。
生産的に集中し忍耐強くあっても、もしも愛する人が離れていったとしたら、その営みはあたかも、穴の空いた洗面器に水を張るようにせわしなく、時に、虚しいものかもしれない。
だからこそ規律•集中•忍耐を続けることは「習練」なのである。それが信じるということなのである。穴の空いた洗面器に愛を注ぐということは、信じることの強さを試されている。ほんとうに愛しているなら、どんなに離れていても、どれだけ近くにいても、その気持ち、その行動に変わりはないはずである。エーリッヒ•フロムはこう書いている。
最後にもう一つ。技術の習得に最高の関心を抱くことも、技術を身につけるための必要条件の一つである。もしその技術がいちばん重要なものでないとしたら、その技術を身につけようとしても、絶対に身につかないだろう。
「あなたが必要だから、愛している」は未熟な愛であり、成熟した愛は「ほんとうに愛しているから、あなたが必要である」だという。その意味がだんだんわかってきた。
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