自分が自分から剥がれていく感じ、とでもいえばいいだろうか。エーリッヒ•フロム『愛するということ』からの感想である。
やらなくてもいいことをしてきた。心に落ちないプレゼントとか、心に響かない手紙とか、考えなくてもいいはずの負の感情を植え付け、育て、収穫できないまま枯らすという〝心の荒れ畑〟を大きくしていた。どうしてこんなに愚かな自分を自分だと思っていたのか。それを恥じいることが(少しずつ)できたことが、心が落ち着いてきた第一の作用である。
その愚かな自分というものは、ぼく自身、これまでずっと重しに感じていたこと、書くことのテーマにもしてきた「孤立」「ひとりぼっち」というものである。孤立を解消したくて、もがいて、歩いて、旅して、恋もどきをして、別れて、なんとか生きてきた。その孤立を埋め合わせるための愛であったから、余計に孤立を深めて迷路に入っていた。だから愛することが光ではなかった。そういう理解が第二の作用である。
そういう自分が剥がれていった。すべて剥がれた、とは言い切れない。ただそれでいいと思う。いかなる体の治療も心の治療も機械の修理ではない。だんだんと治療は進み、あるとき悪化し、また治療し、というプロセスの中で生きて、やがて死んでゆくものだから、そういうものなのだ。それでいいのだ。それに添いながら、少しずつ善くなって、ひとりぼっちをどう解消するかという文を書き続ければいい。それが自分の使命、小さな使命である。そういう気持ちにさせてくれるのが第三の作用である。
要約するとこの三つの作用が自分を救ってくれた(くれつつある)ものだと思う。まだまだあるが、とりあえずはこんなことを思っている。本書から一節を引用しよう。
どの時代のどの社会においても、人間は同じ1つの問題の解決に迫られている。いかに孤立を克服するか、いかに合一を達成するか、いかに個人的な生活を超越して他者との一体化を得るか、という問題である。
だが、尻尾と作文の一体化作業は困難である。
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