愛するということ(1)

大きな救いになる本である。

愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛の一つの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。

精神分析家のエーリッヒ•フロムの『愛するということ』の一節(第二章3項)。たいていの人が、愛する人以外誰も愛さないことが愛の強さだと信じている。だがそれは間違いであり、フロムは誰かに「愛している」と言えるなら、「あなたを通して、すべての人を、世界を、私自身も愛している」と言えるはずだという。

たとえばぼくは猫のピノ子を愛している。だがピノ子の向こうにいる猫も愛することだ。裏のアパートの「鈴」も、近所をうろつく茶トラも、よくサカリのつくツッパリ猫も愛することだ。草花を愛でること、小さな昆虫も殺さないのも同じことだ。だがおうおうにして、恋は盲目になり、言葉は踊る。フロムはシモーヌ•ヴェイユの言葉を引用する。

「同じ言葉(たとえば夫が妻に言う「愛しているよ」)でも、言い方によって、陳腐なセリフにも、特別な意味をもった言葉にもなりうる。その言い方は、何気なく発した言葉が人間存在のどれくらい深い領域から出てきたかによって決まる。そして驚くべき合致によって、その言葉はそれを聞く者の同じ領域に届く。それで、聞き手に多少とも洞察力があれば、その言葉がどれほどの重みをもっているか見極めることができるのである」

ぼくの「愛してるよ」は浅い心から出て、ふわふわと浮かんで、軽いものになって、封じ込められた。「その人だけを愛する」とは、その人から愛をもらわないと生きていけない、死んでしまうという不安から発している。発生源が不安だから不安定なのだ。揺るぎない自信という柱がなく、ただ愛することに柱を求めて彷徨っているのである。

それがわかっただけでもすっとした。こういう人間になろう、こういう状態を目指そうというのが、ずっとしっかりと芽生えてきた。まだ油断はならないのだが。そういえば昨日大相撲で優勝した日馬富士には、それが見える。

これは優勝決定戦で勝った瞬間である。豪栄道を慰めるように背に右手を添えている(朝日新聞)。彼は勝った後、しばしば相手を引き上げるなどして手を差し伸べている。やさしい男なのだ。いやそれ以上に、彼は勝負を高い目線から見ている。相撲を愛する、人を愛するとはそういうことではないか。

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