只管打坐

結局は愛ですよね、と先生は言うのだが、そこから先が奥深い。

親の子への愛は、自分の主観を捨てて子をただ受け入れるもの。座禅を組むときの気持ち、只管打坐(しかんたざ)という言葉を引いて説明される。それは「ひたすら座る」という意味だが、いつも座禅をしているような気持ちで子供に添いなさい、ということである。なぜなら子供を問題児にする母は、寄り添うことができず、いつも自己主張ばかりで、子供も夫もうっちゃって、世間さえぶっちぎる。母は子供の心を映す鏡面のような心でひたすら寄り添いなさい、その気持ちが只管打坐だと先生はいう。

いや父だって持たねばならないはずだ。

ぼくも只管打坐ができない父だったが、母と父では子育てで雲泥の差がある。母は子供の土台をつくり、子はそこに家を建てる。母とは大地、安心、温かさである。一方父は、子が建てる家の設計図の線の引きかたを教えることくらいしかできない。だが男は、男として只管打坐ができなければならない

つまり夫と妻、男と女の関係である。

その関係では、今度は男が母の役割的なものを担い、女は子供となる。男は風雨をひたすら受けとめられる太い柱のような父性をもつ。父性といっても父親のこととは限らない。それは信頼である。信頼される人となることである。

では信頼とはどうしたら作れるのだろうか。

先生はこう説明する。信頼とは自信があることをもつことですよと。誰よりもオレはやれる、ということだ。君にはあるだろうか。ぼくには文を書くことと言いたいが、実際には自信というより「しがみついて」いる。しがみついて離されないようにしているのだ。いいかい、しがみつくのは女ではなく、信頼の柱づくりなのだ。

ふと1年3ヶ月前、ドアから入ってきた猫を思い出した。にゃあ、入ってもいいの?にゃあ。こいつはぼくのことを信頼できそうだから入ってきた。とすればぼくにも信頼の電信柱くらいはあるのだ。猫だけでなく人も信頼できそうであれば来る。なさそうなら去る。それだけのことなのだ。

以上、書いている文からスピンアウトした与太話でした。

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