午前中に次のドクターの肖像の構成を考えて、だんだん盛り上がって、「わかってきた!」と声をあげると猫のピノ子がきょとんとしていた。だがもうひとつ奥までゆかないとラストが見えない。ラストの尻尾が奥に引っ込んだのでお休み、「ASEAN留学生就活講座」の講義資料を1本作った。今回は非常によくなったと自画自賛のコーラスを歌ったら、またきょとんとしていた。
午後イチから「東京さ出るか」と寂しがりやのピノ子を尻目に移動。
行先は東京大学病院のA病棟12階、腎不全患者のお見舞いである。3日前に腹膜透析の挿管手術を終えて、そろそろ大丈夫だろう、お土産は…と思って本屋に寄ったがひらめかず、代わりに日刊スポーツを買った。旬の二人(豊田真由子氏と山尾志桜里氏)が東大の同期生だと出ていた。へえっと言いつつ、病棟にゆくと看護師さんが、ワゴンにくまモンのぬいぐるみを乗せて、患者に腹膜透析のトレーニングをしていた。
「まず、透析液のバッグを提げて、管を持って繋いでください」
「向きがちがいますよー」
「今度は捨てるバッグを取って、つないでください」
くまモンのお腹にささった管をぐるぐる練習して、覚えたら自分の腹膜透析を開始する段取り。たいへんだけれども、慣れてしまえば透析も腹膜も日常生活の中に溶け込んでゆく。がんばってください。
その足で国会図書館へ行き、医学論文を漁った。調査テーマは「その医師だとなぜ他の医師に取れない腫瘍が取れるのか?」であるが、すっかり忘れていた。ともかく手術描写に役に立ちそうな論文を3つほどコピーした。帰宅して読むと「術後の成否は、補助療法前のXXX値や腫瘍の体積に比例する」という一文があった。腫瘍を取ればとるほど良くはなる。そのギリギリを科学的に仕掛ける。それがこの医師の正体なのだろう。
それと関連して、医療の文を書く時にいつも思うことある。それは「治るとは何なのか?」である。
がんであれば「治癒」「完治」「寛解」という用語が使われる。術後5年再発がなければ治癒ないし完治という。覚解は臨床的に見て症状が落ち着いてきて、問題がないだろう診断で、「症状が起こりにくい」という状態である。それは心の病気でも同じで、ある心療内科医は「治るとは、社会に出てなんとか働ける状態」だという。その表現を借りれば治るとは、
自分の体とそこそこ満足に付き合ってゆける状態、
と言ってみたい。なにしろみんな年をとるのだ。骨はもろくなり、骨折が治ったと思って無茶をして、また折ったり転んだりする。ぼくも白内障の術後、老眼がきつくなった。こっちが治ってもあっちが弱くなる、それが人である。自分の腎臓や腹膜が使えるまで使えばいいのだ。そこそこ満足に付き合えればいいのだ。
国会にも秋風が吹いていた…
コメントを残す