愛はどこにあるか、あるべきかというのがなんとなくわかる話。
日本では3組にひと組が離婚すると言われるが、自分を含めた身の回りにも、仕事でインタビューする医師にも、離婚した人は多い。理由はさまざまであろう。「性格の不一致」「不倫」「精神的虐待」「身体的暴力」「経済的破綻」などである。これじゃまるでアンケートの回答結果なので、もう一歩踏み込んでみよう。
ある人は「同じ趣味を持てればよかった」と言った。それは仕事をしすぎてすれ違いになったからだ。ある人は相手を労働力とみなした。育児で疲弊したか、お金運びで疲弊したか。ある夫婦には最初から愛がなかった。勢いだけのできちゃった婚だった。またある人は相手がパラノイアだった。結婚までそれがどうしてわからなかったのかわからないが、心の病やアルコール依存などけっこう多い。
さて、とかく愛の破綻の問題では、「自分がこれこれしたのが悪かった」「相手がこれこれだったのがよくなかった」、あるいは「その両方だ」…と思うわけである。
もちろん間違っていないが、愛を過去形ないし反省でしか見ていない。人は反省から学ぶというが、仕事で学んでも、愛においては人は常に学び足りないように思える。なぜならまた同じような人を選んで、同じように愛して、同じ過ちを繰り返す人が多いでしょう。たんに反省してもだめなのだ。
では愛をちゃんとしたかったら、どうすればいいのだろうか。
こういう夫婦がいる。妻も夫もの愛情に恵まれない人だった。親から愛をもらえなかった反動で、二人ともただ愛に飢えていた。相手から愛をもらいたい。だがどちらも求める一方で、授ける愛をもっていない。だから双方が疲弊してしまった。実は双方とも相手が愛に薄いことはわかっていた。愛を求めてしまう自分にも半ば気づいていた。だから子供を間において、夫婦が少しずつ近づき合っていった。
ここには良い教訓がある。第一に、夫と妻それぞれがどう愛したいか、愛されたいかを考えるべし。第二に、その理由は何なのか思いやるべし。第三に、どう愛するか姿勢を決めるべし。
たとえば、女がかつて暴力的な愛で疲弊した人だとしよう。その記憶が強ければ「迫られるのはイヤ」であろう。男は離れたところにいてほしい、求めるのは自分からにしたい。そうしないと、前の失敗を繰り返してしまう。男はわかったと、ひたすらどーんと構えればいいのだ。どうしてこんな簡単なことがわからないのか。
つまり愛するということは、相手と自分の関係性を見抜くことなのだ。どちらかが悪い良いという問題でもなく、両方が良い悪いという問題でもない。二人のビットウィーン(Between)にあることを理解し合うことだ。それを思いやれるから愛が続く。
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