夏は虫の季節である。アパートの周りを掃いていたら、両足両手とこめかみに計10箇所も蚊に刺された。彼らは血を奪い、病原菌を植え付ける虫である。
ベランダにはコガネムシもやってくる。迷い込んだやつは外に逃がしてやる。さもないと我が猫の餌食である。ベランダに出て猫を撫でて言葉を発すると、穏かならぬ空気が流れ、大きな音が聞こえた。あれは一種の虫の知らせだった。そのあと言葉が出なくなる日が来た。
数日続いたある日、ぴょんぴょん飛ぶように翔ぶ、大きな蚊のような虫が来た。なんという名だろうか。猫が喜んであちこちおっかけた。前足で触れるところまで追い詰めると、長い足の関節がクッションになっていて、つんつんしてもひょいひょいしてた。外に出してやればよかったが天井にへばりついていたので、寝てしまった。
翌日、そいつは床で落命していた。あんなにぴょんぴょん喜んで飛んでいたのに、はかないものだ。猫がやったのか、蚊取り線香(リキッドだが)がやったのか。
いやぼくの「言葉」だと思った。ぼくの言葉には毒が含まれていた。夜中にうめくように発した、求めれば遠ざかる、生ききれもせず死にきれもせず、といった自己否定や虚脱に満ちた言葉の毒にあたって、死んだのではないだろうか?
言葉は唇ではなく心で作られる。心に毒素あれば言葉に毒あり。沈黙は金、雄弁は銀、虚言は毒。どうしたら解毒できるのか?出し切るまで吐くしかないのか?毒を薄めるものはないのだろうか?
虫の死骸をティッシュにつつんだ時、ふと言葉が降りてきた。「人から喜びをもらうより、人に喜びを与えたい。それの方が嬉しい」。不思議なほど心からそう思えた。自ら飛んで喜び、猫も喜ばせ、そして逝った。その言葉は、虫の息だったぼくに滴のようにしみ込んだ。
それから数日、まだ言葉のリハビリは続いているが、久々にブログを書こうと思った。書き出すと、猫が台所の壁を見つめてにゃ、にゃっと言った。いつもは乗らない籐の棚の上に乗って上を見る。なんだろう?と視線の先の天井と壁のキワには、黒光りした虫がいた。屁っ放り腰になりながら退治をするぼくを見て、猫はきょとんとしていた。黒い虫をトイレにサヨウナラしながら、ティッシュにくるんだ「言葉を与えてくれた虫」を公園に埋葬するのを思い出した。明日、行ってきます。
コメントを残す