「弱さ」を考えていた。ホトホト自分が弱いからだ。
先日もらった熱さまシートがなくなってドラッグストアで書い足した。発熱は夕方には収まったが、熱にうなされて、どうしてこんなに自分は弱いのか、体はもちろんだが心が弱い、どうしてなのか考えた。
劣等感、尊重、愛情の三つが思い当たった。
劣等感は才能が無いからとは限らない。世の天才(例えば錦織や清宮、将棋の藤井ら)がなぜ才能を開花させることができたか。それは親が可能性の芽を摘まずにトライさせて、一番良くできそうなことをやらせたからだろう。言葉の励まし、道の示唆、一緒に活動など、子供が「これやりたい!」と言えるか言えないかの環境づくりも含めて。ぼくにはそれが少なかったのか、そもそも才能がなかったのか…^^;;
尊重とは人間関係である。相手の側から考える、話す、する。素直にそうできる人は、父や母が子供本位だったかどうかである。押し付けや禁止をする厳格な家では、この感性が持ちにくくなる。その結果、人間関係づくりが難しくなり、絶えず「わかってくれない」と思い、孤独や寂しがりやの性格につながる。まさにぼくだ。
人を尊重ができないと、愛することがむつかしくなる。
愛するあまり執着心が強くなったり、求めすぎたりする。恋愛が成就しない、肉体関係だけを求めるなど、とにかく距離感が悪くなる。それもまた親から愛されたことが少ない、兄弟姉妹の偏愛など家族の問題が大きい。
そんなことを文で書いているから、熱にうなされても考えている。ぼんやりしていた夕方、猫のピノ子が小さな羽虫を見つけた。
前足でつんつんして遊んでいる。可哀想だよ、と紙の上に乗せて外に出そうとしたら飛んで見えなくなった。猫と一緒に探したが行方知らず。しばらくしてまた猫がつんつんしていた。今度はティッシュにつかまらせて手で覆って、ベランダから逃した。
ピノ子はそれをおとなしく見ていた。ああ…こいつ、獲物じゃないんだ。猫のくせに優しい。
その時、弱いものを大切にできればよくなるんだな、と思い当たった。
強くなれと言われても人は強くなれない。弱さを持つ自分を認めれば、ひょっとして相手も弱さを持っていると想像できるようになる。弱さの中にある良い面を伸ばしてやろうと思えてくる。ちゃんと愛せることにつながる。子育てもきっとよくなる。時間はかかるけれど、そっからだと思う。
コメントを残す