僚友のように

医師原稿を入稿して、心療内科の原稿の1章を仕上げ、もう1章の最終稿にかかろうとしたら、疲れていることに気づいた。こんなに暑いのに御朱印帳の注文が4-5件も入った。それにしても今日は暑かったですね。

そこで本を読むことにした。「読む>書く>書き直す」は三位一体の3Rというのがある作家の教えである。日野原重明氏の『生きることの質』、4合目くらいのところの「愛するとは」という章を読み出した。彼はこんなことを書いている。

すべての芸術ー音楽、美術などは愛がなければクリエイティブな作品を生み出すことができません。愛を目指すところに情熱的な芸術作品ができるのです。

愛なきところアートも医療もなし、リスクが5%あっても手術を優先するなんて愛がないからだという。日野原氏はサン=テグジュベリの「人間と大地」の一節も引用する。

私たちの外側にある共通の目的によって同胞たちに結ばれる時、そのとき初めて、私たちは呼吸することができる。愛するとは、決して互いに見つめ合うことではなく、一緒に同じ方向を見ることだ、と。同じザイルに結び合わされて同じ頂上をめざし、おなじその頂上でいっしょに出会う場合にしか僚友というものは存在しない。

これを読んで、あるピアニストの音を思い出した。若きピアニストの伴奏が実によかった。何がいいのだろう?と音楽に詳しい知人に聴いた。答えは「一つ一つの音がクリアなので歌い手が歌いやすい」だった。そのピアニストは「私の弾く音の中に入ってきなさい」という音を奏でられるのだと思った。

愛するとはそれと同じことだ。僚友と僚友で生きるジャンルは違うかもしれない。だが目指す頂上はきっと似ているー高める、伝える、善く生きるなどだとしよう。そこに至るルートや距離、登坂の道具が違う。違うからこそ一緒である意味がある。たとえば僚友がピアノの伴奏をして、相方の僚友にクリアな音の中に入ってきてもらうように思いやるということだ。

この僚友という訳語がいい。飛行機乗りのサン=テグジュベリが砂漠で不時着して助けてもらったのが僚友である。ひとつのザイルを二人で使うのも僚友である。愛するとは僚友のように、なのだろう。

それにしても暑かった…^^;;

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