てんぷらのような時間で 自分の表札をつくるな。

詩人茨木のり子の詩集を読んでから、その親友である石垣りんの詩集に飛び石した。凛とした強さ、燐とした命を読んだ。

私の目にはじめてあふれる獣の涙』は、生涯に4冊きりの詩集しか出さなかった詩人の言霊集から、40編を精選した詩集である。茨木さんの詩集もそうだったが、40という数は読み切りやすく、しかもそこそこの満足もある絶妙な数である。石垣りんの40編中、もっとも心を動かされたのは2編。まず代表作の『表札』。全文載せてしまおう。

表札

自分の住むところには
自分で表札を出すにかぎる。

自分の寝泊まりする場所に
他人がかけてくれる表札は
いつもろくなことはない。

病院へ入院したら
病室の名札は石垣りん様と
様が付いた。

旅館に泊まっても
部屋の外に名前は出ないが
やがて焼場の鑵(かま)にはいると
とじた扉の上に
石垣りん様と札が下がるだろう
そのとき私がこばめるか?

様も
殿も
付いてはいけない、

自分の住む所には
自分で表札をかけるにかぎる。

精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない
石垣りん
それでよい。

背景としては50歳にして初めて一人暮らしをする石垣りんが、まだそうできてない頃に一人暮らしに憧れたのだろう。重い家族から逃れて、重い責務から放たれて、自分で自由に生きる。誰にも邪魔されない。死ぬ時は「〜様」と焼場に出されてしまうが、そのときまでは、様もなく殿もなく、ありのままを生きて書いてゆきたい、という気持ちだろう。

郷好文
それでよい。

もう一編は『貧しい町』である。この表現にノックアウトされた。全文載せてしまおう。

貧しい町

一日働いて帰ってくる、
家の近くのお惣菜屋の店先は
客もとだえて
売れ残りのてんぷらなどが
棚の上に まばらに残っている。

そのように
私の手もとにも
自分の時間、が少しばかり
残されている。
疲れた 元気のない時間、
熱のさめたてんぷらのような時間。

お惣菜屋の家族は
今日も店の売れ残りで
夕食の膳をかこむ。
私もくたぶれた時間を食べて
自分の糧にする。

それにしても
私の売り渡した
一日のうちの最も良い部分、
生きのいい時間、
それらを買って行った昼間の客は
今頃どうしているだろう。
町はすっかり夜である。

「熱のさめたてんぷらのような時間」「私の売り渡した 一日のうちの最もよい部分、生きのいい時間」こんな表現が書ければ、筆は折っていいでしょう。この詩にはすこぶる脱帽してしまった。

自分の生きた事実を書く、暮らしを書く、生活を書く。それは簡単なようでむつかしい。恨みやつらみ、嘆きや愚痴になってしまう。個人的なものにとどまってしまう。普遍的なものにしようとすると、芯にある意味、熱さを失ってしまう。伝えるにはバランスではなく、本名で表札を出すようにばーんと貫く、やりきってしまえ、なのでしょう。

なぜなら人はいずれ死ぬからである。『おやすみなさい』という詩に次の一節がある。

私たち 生まれたその日から
眠ることをけいこして着ました。
それでも上手には眠れないことがあります。

眠ることは「永遠に眠ること」だとぼくは読んだ。その時の眠りのために、1年365日、75年とすれば27,375回、眠るけいこをするのだ。詩人は眠りの中は、財産も地位も衣装もない、裸の島であるという。みんなやさしく、熱く、激しく生きれるという場所。そこには絶望からのやさしさがある。

では、熱のさめたてんぷらのような時間で 自分の表札をつくるな。素の自分の表札を抱いて、おやすみなさい。

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