大臣えらび

大臣を決めるニュースを聞くと、ある男を思い出す。

スケールの大きい男だ。山梨に生まれ、国立市の名門高校に進学し、そこで先生から「良い医者になるなら成田山の方角」と言われ、あえて本郷の大学を飛び越して千葉大学医学部に進学した。卒後、西の方角にほのかな劣等感を抱いていると、教授から「おまえな、欧州には500年の歴史の大学がゴロゴロある。東大なんてたかが100年だ」と言われた。そこで一念発起、どうせ行くならとエール大学へと留学した。小俣政男氏、当時27才だった。留学を経て、内科の研究者として肝炎研究で世界的な実績を挙げた。すると東大の第二内科から接触があった。

「赤門をくぐってくれませんか」

と言われて46歳で東大の第二内科の教授に就任した。110人もの俊英の東大卒の医師がウヨウヨする医局で、初代のトザマ教授として彼は奮戦した。並み居るツワモノ医師を組み伏せた。スケールの小さい人にはできないことだ。

何が言いたいかというと、大臣になるということは、日本のエリート中のエリート集団である省庁という組織に外から降りて君臨することであり、小俣氏と同じだと思うのだ。東大卒ばかり、エール大学留学生だってごろごろいる。みんな射るような目を持っている。

小俣氏には世界的に認められた実績があり、人間スケールがあった。だがたとえば稲田防衛長官のように知識もなく無能であれば、なめられて挙句、最後は四面楚歌である。省庁のエリートがリーダーを認めて支援するから、政策が生まれ実行される。だがほとんどの大臣はなめられるから、国民からみれば何もしてないように見えるし、実際そのとおりなのである。

大臣には知識や頭脳で勝る省庁エリートを従わせる「何か」がないと務まらない。そういう視点で果たして選ばれているのだろうか。選挙民は二度でも三度でも騙せるが、省庁エリートは一度も騙せない。アメリカのトランプ政権で人事が混乱しているのも、本質はそこにあると思う。

大臣を決めるのは総理とその御付きの国取り合戦だが、いっそ省庁の役人で投票したらどうだろうか。投票結果には人物のナマのスケール評価がある。その結果だけで決めなくてもいいが、大きな判断材料になるだろう。

なんとか体調は回復してきました…シートが効いた。ありがとう。

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