鶴嘴(つるはし)で自分を掘り当てるまで掘ってゆかねばならない。
病床記の「思い出す事など」はどうも読みにくかったが、講演録「私の個人主義」はよかった。人間夏目漱石を知った。大正3年に学習院大学で行った講演で、彼は大学を出たけれど…という絵に描いたようなプー太郎青年だった。紹介をもらって学習院に教師の口があると聞いた。受かったものと思ってモーニングを揃えた。ところが落ちた。仕方なく田舎の中学に赴任したのが、あの坊ちゃんの松山の中学だった。その後熊本で教師をした。
教科はもちろん英文学である。だが彼にとって英文学とは何か?実はわかっていなかった。機会を得て英国に留学して、英文学を学べば学ぶほどわからなくなった。わかったのは「文学とは自分で作らなければならないものだ」ということだった。人の受け売りではない、すでにそこにある学問でもない。自分はどうすればいいのか。模索する彼に降りてきた4文字。
「自己本位」
自己本位で、自分の文学を作るため、文学とは違うものー哲学や科学を研究しだした。しっかり行先は見えないにせよ、出発することで不安が消えた。次のくだりが好きだ。
どうしても、一つ自分の鶴嘴で掘り当てるところまで進んで行かなくってはいけないでしょう。いけないというのは、もし掘りあてる事ができなかったなら、その人は生涯不愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです。
自己本位に向かって煩悶をしない者はやがて腰が折れてしまう。「ああようやく掘り当てた!」という間投詞を叫ぶ瞬間がない限り、どうしようもなくなると漱石は言う。
さてどれほど懊悩すればそれに当たるのだろう。どれほど自分モドキを蹴散らせ捨てればそれに当たるのだろう。孤独なる暗い道である。漱石と同じ英文学を学んだぼくも英文学がわからかった。それからずいぶんあちこち歩いた。今ひとつ思う。
ずっと書いてきている医師の肖像は、人を書くことである。医師の言葉を編集するヤワな書き方はしていない。人を彫るように書く。書く上では思想がいる。思想がないと人は動かない。動かなければ読者も動かない。テーマによって「良き医師たれ」「弱き人を助けよう」などと変わるが、ひっくるめて言えば、「いかに生きるのか」というテーマが自分に課せられていると思う。そこが最も興味のあるところである。
この作品は無料の青空文庫で読めます。図書館で借りてもよし、買ってもよし。道を探す人は必読です。どうぞしっかり。
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