「死にゆく人のかたわらで」を読んで。

『死にゆく人のかたわらで』(三砂ちづる著)は末期ガンの夫を自宅で看取った妻の記録である。

中咽頭がん、頸部リンパ節転移、ステージⅣと診断されてからおよそ2年、治療だらけの闘病記ではなく、訪問診療や介助サービスを受けながら、自然な形で自宅で死を迎えるまでの話である。看取った妻は、大学教授であり作家なので筆致にはリアリズムがある。

思えば自宅で看取るというのは三世代前までは自然なことだった。今、その想像力が働かなくなったのは、ちょうど子育てで母乳をやらなくなって三世代目に「母乳が出なくなる」という現象に近いと著者は書く。トイレが水洗になって家から怖い所が無くなったように、家から死がなくなった。

しかし筆者の看取りは怖いものではなかった。いよいよとなって訪問診療医に連絡すると「亡くなったら私を呼んで下さい」と言われた。病院なら延命するためにあれこれする。だがこの医師はただ受け入れる。一種の静謐さがある。筆者はそこで「介助」の意味に突き当たる。

(介助とは)その人がその人らしくあることができるように、そしてその人が、その人と共にある人が静かにその時を迎えられるように、環境を整えるのが介助者の役割ともいえる。

死んでゆく環境を整えてあげること。腕の中で死んでゆかせる、というのは結局どういうことなのか。筆者の結論はここにあると思う。

子供産んだり、子供を育てたり、子供を作ることにつながるような愛の暮らしを営んだり、弱った人を助けたり、人生の終わりに向かう人を送ったり、そういったことは、誰か私的に近しい人の「手の内」にある、ということだ。育ち行く本人、死にゆく人の安寧は、誰か親密な関係を持つ人に委ねられる、ということなのだ。

子育ては子供に選ばれると言われる。同じように介護する人も選ばれると著者は書く。手の内の夫は幸せだったのだろう。あとがきに「配偶者とはどうでもいいことを共有する人。どうでもいいことを喋ったり、ただ時間を共に過ごす人」とあった。それがあるから看取れる。今、配偶者がいない身に照らすと、ちょっと切ない。

本書は「看取るための情報」としても「ドキュメント」としても読める。批評ぽい目線で恐縮だが、第一話から三話までの畳み掛ける構成と文がものすごい。この調子でいかれたら追い詰められた。だが後半はトピック別に(お金とか延命とか痛みとか)なって、情報源ぽくなった。されば書き下ろしではなく連載だった。不肖文章を書く者としては惜しいと思った1点である。

最後に、「死とは冷たくなることだ。生きているとはあたたかくて、やわらかい体を持っていることだ」というくだりに激しくうなずいた。いつも猫のピノ子をなでていて、同じことを思うので。

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