推理小説の構造を知ることは文を書く上で非常に必要だと気づいたので、原点から読み直そうと思った。手にしたのはシャーロック•ホームズ。
ぼくの推理小説マニア時代は小学生高学年から中学生までの3年間で、古典という古典は読み尽くした。だがホームズだけはなぜか敬遠した。処女作のタイトルを『緋色の研究』で覚えていたが、屈指のシャーロキアンによれば『緋色の習作』の訳が正しいという。読んでゆくとその意味がわかる。コナンドイルにとって<習作>だったのだ。
さて本書は大きく3つのパートに分かれる。ホームズとワトソンが出会って、ロンドンで起きた殺人事件の犯人を捕まえるまでが1章。そこから40年以上遡り、米国の砂漠を舞台にする歴史小説になる。これは意外だった。「ワトソン君、どうだね」という〝お座敷推理物〟のイメージがすっかり裏切られた。ユタの地からロンドンに近づいてゆき、終章は犯人の告白とホームズの推理の解説でなる。見事な作品である。3つのことを思った。
第一にコナンドイルは「自由」である。彼は単なる殺人事件を書かず、歴史物と探偵物を合体させた。こんなに自由でいいんだ!と目からウロコが剥がれた。
第二に「人を描き、動機を描く」全読したエラリィ•クィーンも積ん読したアガサ•クリスティも読み飛ばしたESガードナーも、薄っぺらかった。単なる推理ものだ。先駆者はすでに人間を描いていた。
第三に「結論からポンと書け」ホームズにこう語らせている。
「大抵の人は事件の流れを説明されれば、結末を推理できるんだ。けれども結果を聞いて、その結果がどういう経過を経て起こったかを論理的に推理できる人はほとんどいない」
結論だけをポンとあると読者は「へ?」となる。そこから物語を解き明かして、ハハンと言わせるのは、いつの時代でもどんな本でも通用するテクニックである。
ジャンルを越えて自由に、人の心を描き、謎解きで読者を引っ張る。これがわかったのでぼくはワトソン以上に満足した。
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