堺屋太一氏の『欣求楽市 戦国戦後半世紀』(毎日新聞社、1998年)を仕事で強制的に読み出した。堺屋太一という歴史から未来を観る預言者の本には、これまで近づく機会がなかったが、これがいろんな意味でおもしろい。
銭で兵を雇う革命、桶狭間の合戦の真実、築城の狙い、既得権益や組織の変え方…ツッコミどころはいっぱいある。本書を信長と家康の対比、と言い切ってしまうにはあまりに浅い読み方である。とはいえひとつ書いておきたい。本書発刊当時の売り文句は〝21世紀の日本は「信長型」か、「家康型」か〟である。
堺屋太一の観るところ、1980年代後半のバブル景気時代は、信長が独裁的に突っ走り、進撃を続けた時代とかぶり、成長と進歩と新技術や夢がある時代だった。だが信長の死去後に引き継いだ秀吉は、跡取りだけを気にする小者だったので、信長が描いた壮大な理想社会はちっぽけな欲望社会に堕落していった。
もっと問題はその後の家康時代である。家康は武士の社会から功名と出世の夢を消した。安定社会を「浄土(理想)」と見て、信長の夢見た進歩の社会を「穢土(けがれ)」とした。
近年の日本にもどると、1995年に自民党が政権に復帰し、バブル時代の清算を開始した。方針は投資抑制、接待禁止、増税だった。社会はプシュンとなった。98年当時から堺屋太一氏は、この政策では矮小な利権と停滞に安住する夢のない社会となり、貧困化と100年の停滞を覚悟すべきと書いていた。
まさにその通りになった。そういう意味では信長待望論があってもいい。
だから今世界のあちこちにやんちゃなリーダーが現れているのか。破壊的なトランプ政権は実は待望ヒーローなのか。新しい秩序には戦国時代と同じく犠牲がつきものだ。やはり戦乱の世なのか…^^;
堺屋史観的に見れば、日本社会の閉塞を打開するには、政権云々よりも、コチコチの官僚機構をぶっこわして、家康以来500年染み付いた「お役所一番」という我々の価値観がひっくり返らない限りダメだと思う。
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