一昨日、夜も更けた11時過ぎ、iPhoneが震えた。画面を見ると友人の名があった。こういう時間に平気で電話を掛けてきて、何も用事がないのが常である。無視を決め込もうとすると、いつまでたっても呼び出しが切れない。19回目で仕方なくでたら、共通の友人の訃報を告げてきた。
「O野っていたじゃない。覚えてる?」
共通の、と言っても中学時代の同級生で、ぼくは故郷の街を離れてずいぶんたつし、同窓会的なものは行かないのでうろ覚えだ。
「彼はフィリピン人の奥さんもらって離婚して、またフィリピン人の奥さんをもらってさ」
「一人目は聞いたなあ」
「それが、家族が帰宅したら死んでたって」
「ええ!心臓か?」
「あるいは脳か。まだ中学生か高校生の子もいるらしいんだ」
「それはたいへんだ」
「それがさ、実はO野が死ぬ2ー3日前、彼にばったり会ってね。スーパーでひとりで買い物してた。死ぬようには見えなかったが」
一ヶ月ほど前だったか、別の同級生がやはり突然死した。家族葬をした。確か昨年もあった。皆五十代半ばすぎである。次に危なそうなのがぼくなので、安否確認の電話だったのだろう。だから切らずに長く呼び出したのだ。
ところで今日は某病院の医師にインタビューをしてきた。
帰り際に医師の書いたエッセイ集を渡された。こういうのは気が重くなるものだが、帰途にページをめくると意外におもしろかった。〝パリの休日〟という一文では、ルーブルやシャンゼリゼにいる恋人たちを見てから医師はクラブに寄った。その最後のくだりはこうだ。
こんな話を耳にした。あるクラブの80歳になる支配人が自殺した。「自分はもう年老いて女性を愛せなくなったから」だと言う。人生は愛なのだとつぶやいている豊かな老人の姿を、私はパリの空の下で思い描いていた。
O野君の愛が幸せだったか知らないが、失敗だったとしたら悲劇だし、成功だったとしたらなおさら悲劇である。男はしょせん女次第である。ぼくも離婚したし、またやり直したい。パリの支配人と同じく女を愛せなくなったら死ぬ。それがぼくにとっては自然死だと思った。
まだピノ子も若いからなあ…
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