空を見ていたらふと我が母を思い出した。お空に逝っちゃう前の年くらいのことだ。母は最後の入院をする前に、3階のベランダから空を見ては叫んでいたという。兄は声をひそめて言った。
「ワケのわからないことを叫んでいた。ボケちまった」
兄が言ったその言葉を、母が亡くなってから何度も考えた。
母がまだ存命中、ぼくはときどき実家にご機嫌取りに立ち寄った。たまには買い物の用事を手伝い、ネットで携帯ストラップの注文も代行してあげた。普通に話していたし、普通に酒を飲んでいた。元々お茶の間ドランカーだったので仕方ない。そんなある日、家の中の階段を肩にかけた毛布を引きずって降りて踏んづけて転んで落ちた。大腿部だったか脛だったか骨折した。暮れも大晦日かその前日、緊急入院をした。それを機に年寄りにはよくあることだが、ボケて叫ぶことがあるというのだった。
その後しばらくして、手術後の肺がんが転移して最後の入院となった。たまには面会に行った。都立老人病院の綺麗な個室だった。やることがナイナイとこぼして、たまの院内のイベントもつまらないと言っていた。ちっともボケていないのだ。何しろシモの世話だって最後の最後、亡くなる直前までほぼなかった。そういうしつけをされてきた母だ。どうも要介護度認定のためか何かで、兄が口裏を合わさせようとして、ぼくに刷り込んだのではないだろうかと思えた。
母の母(ぼくの祖母)はどんな人だっただろうか。孫としてはそれなりに優しいと思ったが、母には厳しかった。
玩具会社の創業家に生まれ、婿養子二代目の文人の夫よりも経営の才があった。会社だけでなく、女中が何人もいるでかい家を切り盛りしていた。戦前は東京でも指折りの金持ちの家だった。不思議なもので女系家族は続くもので、二人の娘を産んだ。姉がぼくの叔母で、妹が母である。姉は会社を継ぐ宿命なので厳しくも優雅に育てられた。
一方妹はやがて外に出される宿命、出しても恥ずかしくないように厳しくしつけられた。母にも自立心があったので、大学を入り直して教師にもなった。その後結婚して、だだっ広い実家とは正反対のあばら家に住んだ。そこで思い出したのだが、あばら家に祖父は何度も来たが(ぼくは祖父に英語を習っていた)、祖母が来た記憶がない。たぶん娘の家に一度も来なかったのだ。同じ都内であったのに来なかった。
母から何度も聞かされた一つ話。そのあばら家のローンの支払いが厳しくて、道ばたにお金が落ちていないか見ながら歩くほどだったのに、実家は一円も援助してくれなかった。やがて婿養子三代で潰れると言うが、その通り経営が傾き、実家は滅亡した。ぼくら子供もそれなりに片付き、夫もついにお空に逝った。日本酒を一杯飲っては、母はベランダで叫んだんじゃないだろうか。
「ようやく解放されたぁ!」と。
あるいはこうも考えられる。我がふたりの息子たちは情けない。長男は婿養子先で会社を潰し、次男は結婚で失敗した。自分は肺がんになって二度手術を受けて、入退院を繰り返して抗がん剤のイレッサもつらかった。それで叫びたかった。
「やってられないよ!」と。
それもあっただろう。まあどっちにしろ母はそれなりに幸せだったと今は思う。叫んだら気持ちもよくなったのだ。母の日のカーネーションみたいな麗しい話は書けなかったけれど、それも息子のサガである。ゆるしたもう、母よ。
そういえば娘たちから返信の手紙をもらった。独身の長女の絵葉書には、毎週大阪にプロジェクトで泊まり込みで、プロジェクトリーダーがむつかしいとこぼしている。かんたんなことならリーダーという名前はつけない。がんばれ。次女の官製はがきには、自衛隊の糧食のおでんが美味しいという情報以外に、驚くべきことが書いてあった。「3人目の子がお腹にいます、もう7ヶ月になります…」ああ!この手紙まで知らなかった。母よがんばれ。しかし3人にもなるんじゃ、毎日叫ぶんだろう。
「こらこらこらだめ!良い子にして!」と。
母は叫ぶ生き物なのだ。マァ母の日くらい、目一杯叫んでください(^^)
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