『私の浅草』を読んで浅草が歩きたくなった。

 随筆『私の浅草』(1976年作品)には〝浅草座の人びと〟とも言える下町っ子が登場する。気っ風(きっぷ)のいいおかみ、艶やかな芸妓、いきおくれ、四十過ぎの万年大部屋役者、恋する大工、紅い鼻緒の下駄を盗んだ学生、関東大震災で死んだ遊女たち、浮気者の父でも好いた母、モテた役者の兄…。名女優沢村貞子さんは父が狂言作者、甥に長門裕之や津川雅彦がいる芸人一家に生まれた。

 一家が暮らした浅草の路地はどこも塵ひとつなく掃除され、窓格子の木も磨かれて細くなった。どこの横丁にも『ドブ長さん』がいた。何か問題が起きると面倒を見てくれる気さくで勝気で世話好きのおかみさんである。彼女たちがしゃしゃり出て、縁談も浮気も人助けも、あらゆる物事を丸くおさめた。

 浅草という町はそういうお互いのおせっかいがなければ、うまく暮らしてゆかれなかったのかもしれない。お人好しの弱い庶民が、なんとなく肩を寄せあって住んでいたところだから、どうしても世話焼きが必要になってくる。

 文のリズムは切って鮮やか、磨いてピカピカ、あたかも下町を歩くようだ。台本のト書きのように無駄がなく、シーンが広がり人の心が射抜かれる。往時のキレのある名演が思い出された。たとえばこんな一行がいい。

 浅草は浮気男の天国だったようである。

 父は売れっ子の狂言作者で、モテた。随筆には何度も父の浮気ぶりがある。『たかが亭主の浮気』では、母が嫁入りした日に送られてきた鰹節の箱の中から、出刃庖丁が出てきた話があった。どこぞの女からだ。父はそれを自慢して語った。男は気苦労ばかりの存在なのである。では女はどう生きたのか。『化粧』の最初の一行もいい。

 浅草では、堅気の女はほとんど化粧をしなかった。

 化粧をするのは水商売か遊女か芸妓かで、どの家も堅気の女房は化粧をしなかった。色を売らない女はヘチマの水で叩くくらいだった。男もそれを望んだーいやそれは外で白粉女と付き合うから、家でくらいシラフの女といたいのだろう、と差し込んでくる。

 筆者はどんな浅草女だったのだろうか。『浅草娘』には母と本所にゆくくだりがある。隅田川のほとりで用事を済ます母を待っていた。そこに道路工事の人夫たちが弁当を食べていた。「ねえちゃん、紅い帯が似合うねよ」「誰待ってるの?」「それよりさ、オレと遊ぼうよ」と冷やかした。すると貞子嬢は彼らをきっとにらみつけた。

 「いい加減におし。ここは天下の往来なのよ、娘がとおって何が悪いの。桜の花見て隅田川を見て、何がおかしいのよ。誰を待っていようと大きなお世話よ、ほっといておくれ。女の子からかっておかずのたしにしようなんて、ケチな料簡起こすんじゃないわ」

 工事人夫たちは黙ってしまった。なあるほど…と思ったら、ある色事師が言ったという言葉を見つけた。

浅草の女は口説きにくいーおだてに乗らないからねえ。

 随筆のタイトルを眺めると、セル、お茶漬けサラサラ、医者ころし、蚊帳、そして役者バカ…昭和の死語という死語が、ここではあざやかに生きている。そう、浅草には昭和の素面(しらふ)があった。啖呵を切って生きる男女がいた。彼らが浅草に似合っていた。
 粋に生きた父は〝極楽とんぼ〟と述懐する。家には神棚があった。旅興行で回る全国津々浦々の札を狂言芝居の団員が持ち寄ってくる。父はそれを一つ一つ神棚にあげていた。そして毎朝、身じまいをするとすぐに、神棚にお灯明をあげ、長い間拝んだ。祝詞かお経かわからない文句をぶつくさ言って、その合間に具体的な願いがはさみこまれた。

「今日の舞台は何がなんでも大入りになりますように」
「国太郎(兄)の舞台がうまく務まりますように」
「なにとぞここ一番大儲けをさせてください」
「貞坊、女のくせにお茶くらいうまくいれられねえのか」

 貞子氏はあんなにちゃらんぽらんな人だったが、あの世でもけっこう神様に可愛がられているのだろうと〆る。
 戦前の浅草を描ききった名随筆はどこから生まれたのか。昭和がいい時代だった、というノスタルジーからとはいえない。彼女は教師になろうとして挫折した。女優になったが戦前の劇団活動で何度も投獄された。それでも演じることをやめなかった。あえて脇役の道を選んだ。その脇役ぶりはどれも印象深いものだった。背負っているものはあっただろうが随筆には〝からっとした下町〟がある。その理由を『こんにちさま』のずしりと重い一行に見つけた。

愚痴を買ってくれる人はいませんもの。

 浅草にはそういう強さ、潔さ、気っ風があった。浅草を歩くのが楽しくなった。

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