ぼくは女の口から目が離せなくなった。女は小さなベーカリーの壁際の小さなテーブルで、ほっそりとした指で菓子パンを千切ると、決して大きくない口に入れた。女の薄い頬はパンで膨らんで、顎の上下運動を経て飲み込まれた。そのあいだ唇の両端はかすかに笑みをつくっていた。
ぼくは女のパンが数回目に千切られた時にベーカリーに着いて、女の前に腰かけた。珈琲を註文して来ようかなと言うと(この店はセルフサービスである)、女はここは珈琲は高いし、食べ終えたらすぐに出るからというので、ぼくは小銭入れのあるポケットに手を突っ込んだまま言葉を飲み込んだ。どっちにせよぼくは女の口から目を離せず席を立てなかったのだが。
お代は少し張るが美味しいと評判の店のパンを、女は格別美味しそうに食べるわけではない。かといってある種の女性にありがちな、ことさら上品ぶって口に手を当てる仕草もない。千切っては口に入れる。それだけだ。そこから目が離せない。
ぼくはこの女を比類なき美人だと思うのだが、夕方遅くまでの仕事を終えて急いで来た様子は、紅がすっかり落ちた唇でわかった。そこにパンが入ってゆく。女の化粧っ気のない唇が動くのを見ていると、仕事で消耗した成分を吸い上げようとする補給活動に思えた。すると、その口を何にたとえればいいか思いついた。木の上の巣にいるまだ大空に飛び出せない小鳥が口を開けて待っている。母鳥が運んでくる獲物が口に落とされ、小さな口が閉じられて飲み込まれる。小鳥は上を見上げて小さく鳴くのだ。あれだ。
女はパンを千切り終え、紙ナプキンで拭った口に幸せそうな笑みを浮かべた。それが幸せとしても、ぼくがもたらしたものではない。家で売れない文を書くぼくを呼びつけて、ベーカリーで待ち合わせようというのだから、ぼくらはきっと不幸ではないけれども、行き掛かり上とはいえ、女の勘定さえ出さなかった小銭入れには大きな幸せが入っているとは言えなかった。
ぼくらは立ち上がった。さあ行こうか、夜桜見物へ。
ベーカリーの近くの交差点から隣駅まで続く桜道を歩き出した。桜が植えられて半世紀ほどになる枝ぶりは立派である。数日前の週末にはこの通りで桜祭りがあって賑やかだったのだろうが、残念にも開花はまだちらほらだった。その翌日と翌々日に気温が上がって一気に咲いたが、またその翌日には大風と冷雨があった。そんな熾烈な天候を経たのに、桜の花はまだほとんど落ちずに、花びらの重さで太い枝もしなるようであった。
ぼくらは桜の木を一本一本吟味していった。まあこんなに太くなられて。二股に分かれても丈夫だし。道路を横断して向こう側の家に到達している。ベランダでお花見ね。ごつごつとした木肌は元気な年寄りだ。あらこの切株、昨年はあったかしら。きっと落雷があって落命したんだ。切株をテーブルにしてワインとチーズで花見ができるわね。
歩きながらぼくはまだ女の口のことが頭から離れなかった。
古い映画のシーンを思い出した。まだ寝ぼけた時間に朝靄を切ってタクシーが大通りに停まった。降りたのは、背中が開いた黒い夜会服を着た痩せた女だ。サングラスをかけていた。女は通り沿いの立派な建物の展示ウィンドウの前に立つと、手にした紙バッグからコーヒーの紙コップと菓子パンを出した。宝飾店ティファニーのウィンドウには貴金属が展示されていた。黒いドレスの女はそれを眺めながら、小首をかしげてはパンを一口、また一口と齧った。口の穴が開いては閉じた。黒いドレスの背中に昨夜の肉欲の痕跡を匂わせ、今朝は貴金属という物欲に向かっているのだろうか。その欲望はともかく、ウィンドウからウィンドウへ止まり木の朝食は、決して食欲で動かされていなかった。映画の中の女-往年の女優オードリー・ヘプバーンもまた食物を「食べて」はいなかった。どう見ても何かを補給していた。
女たちの口はいったい何を補給しているのだろうか。
沿道の長い桜トンネルが終わりかけて、若い痩せた桜の木からひらひらと花びらが落ちてきて、女の肩に舞い降りた。月明かりでそれは光った。女も光ったように見えた。その瞬間、女が何を食べていたかわかった。
女の口は夢を食べていた。
ずっと綺麗でいる夢、ずっと幸せでいる夢、ずっと続く夢を食べている。いつか来る夢を小さく開けた口で食べているのだ。男たちよ、女には夢を食わせてやれ。お前の夢を千切って、その愛おしい口に放り込んでやれ。
と自分に向かって言ってみるのだが、せっかくなので男性読者諸君にも言葉を千切ってさしあげました。
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