日本人の神

遠藤周作の『沈黙』のテーマは幾つがあるが、中でも重いのが「日本人の神」である。

昨日読んだ本書の感想をもうひとつ書いておきたい。〝転んだ〟フェレイラ司祭と、彼の消息を訊ねて日本に潜伏したロドリゴ司祭は激しく言い争いをする。フェレイラ司祭は日本で布教をしてきた20年を不毛だったという。

「キリスト教の神は日本人の心情の中で、いつか神としての実体を失っていった」
ロドリゴは怒る。「何をあなたは言う」
「この国で我々の建てた教会で日本人たちが祈っていたのはキリスト教の神ではない。私たちには理解できぬ彼等流に屈折した神だった」
ロドリゴはなお言い張る。「私は殉教者たちをこの眼ではっきり見た。信仰にもえながら死んでいったのをこの眼で見た」

ロドリゴは切支丹のイチゾウとモキチが十字架に縛られて、海の波に打たれて死んでいった光景を思い出した。踏み絵を踏まなかった男の斬首も見た。薦(こも=イネのむしろ)でくるんだ女が海に落とされたのも見た。彼らが信仰のために死んだのでなければ、彼らに対する冒涜ではないかと。だがフェレイラは言う。

「日本人は、人間と全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力ももっていない」

そこで〝暗黒時代〟とも呼ばれた中世の信仰に似た「物活論」を思い出した。

山•森•海•嵐•など自然に魂があるとして我々は神話をつくった。神話は西洋ではルネサンス期の科学時代となって暗黒の恐怖を振り払っていった。科学から見ればアニミズムは一笑に付すものだが、たとえば富士山信仰ひとつとっても、ぼくらの中にはまだ自然神がいるようにも思える。

だとすると、当時の殉教者たちは何を思って死んでいったのか?厳しい年貢の取り立てや一生続く身分制度、上向かない暮らしに絶望する中で、キリスト教という「新しい」宗教を知って「すがろう」と思ったのだろうか。だとするとそれは、現代の新興宗教の救いに近いようにも思える。パライソ(天国)は絶望を解き放つ場であり、だから切支丹になろうと思ったのか。だがそれは死に値するほど強い意識だったのだろうか。

ぼくはこう想像する。死を目前にした彼らのもとに、神が現れたのではないだろうか。「私もあなたと同じ苦しみを味わってきた」と語りかけたのではないだろうか。それが日本の自然から来たのか、それとも西欧から来たのか、それはわからない。神が来たならば、それを感じたゆえに、耐えられたのではないかと。

良い寝顔だにゃ…

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