自分が苦しむ時は神も苦しんでいるという。そうだと思いたいのだが…
今日は心がすぐれず、何も手をつけることができなかったので、せめて読書をした。しようもない本を読みかけて止めた。良いテーマ(玩具の文化史)なのにもっと書きようがある。事実の羅列でつまらない。文章には読ませる技術がいる。もう一冊、遠藤周作の『沈黙』を取った。こっちは一気読みした。スコセッシの映画(沈黙 -サイレンス-)を観てから原作読みとなったが、まずわかったのはスコセッシはほぼ遠藤作品をそのまま描いていたこと。遠藤作品へのスコセッシの敬意だろう。読みながらあの傑作映画ではイマイチに見えたキチジロー役の窪塚洋介の演技がやっぱりイマイチだと思った。裏切り者の〝ユダ〟役として、もっと狂気の演技ができたならよかった。キチジローがキモなのだから…。
遠藤作品は重いテーマを投げかける。信仰の自由なんて薄っぺらいものではなく、人間の救済とは何か、誰ができるのか、どうすればできるのか、そしてそれは果たして誰の救済なのか?ほんとうに救済なのか?答えが出せないテーマが17世紀の鎖国の国の南端で数多の死をもって問いかけられる。
一気読みした中で一節引用するなら、ラストである。
司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、もっとも聖らかだと信じたもの、もっとも人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。
司祭ロドリゴが踏み絵を踏む瞬間。神が初めて語りかけた瞬間。悪、絶望、犠牲、狂気、偽善…人のあらゆる負を背負った〝神〟の美しさが見えた瞬間。日本人の八百万神がどんなものかよくわからないが、キリスト教精神の根本が見えたような気がした。
ぼくもまた苦しみの徒である。それは司祭フェレイラやロドリゴのように、我を救うか人を救うかで苦しむ崇高な苦しみではない。もっと卑近な、もっと身勝手な、世間擦れした苦しみである。苦し紛れに「神様お願い」とぼくはよく口にしてしまう。弱い人間なのだ。苦しんでいるさなかに神は降りるなら、まだ現れてくれないぼくは、苦しみが足りないのだろう。現れてくれる前にきっとぼくはこの世にいないなあ(^^;
いつももうめげそう、とつぶやく人生の最後には神様は来てくれるのだろうか。そこまで生きようと思っている。
オチているぼくを尻尾の神様が励ましてくれた。
コメントを残す