医師は中立であれと言われる。だが中心は空洞ではなく何かの〝餡子〟があるものだ。
分厚い『胡蝶の夢』(司馬遼太郎著)もようやく終盤。舞台は江戸城が無血開城となり、新撰組の近藤勇と土方歳三は脱走兵を指揮して一敗地にまみれ果てようと考えていた。そこへ新撰組お付きの医師の松本良順が来た。近藤は頭を下げて言う。
「長いお付き合いではなかったが、あなたを志士ある人と思って敬慕してきた」
松本良順は「冗談じゃないよ」と言い返した。自分は医者であり、近藤や土方のように主君に忠義を捧げ志の中で死ぬ者ではなく、病人がいるからそこにいるだけであると言った。近藤はその後捕えられて、板橋で斬首刑にされた。生き延びた土方も明治の夜明けと共に散った。良順は幕府の軍医として会津へ旅立つ。その別れの酒席で、義兄の佐藤舜海(順天堂医院初代院長)はこう言う。
「医師というものは自宅かその医院にいるものだが、あなたは違う。外へ行く医者だ」
良順は兄はどうするのか?と訊いた。舜海は珍しく多弁に答えた。
「医師というものは仁者か強盗の二通りしかない。私という凡人は病者の友でしかない。だからここに留まり、教えを続ける」と。
まず「外へ行く医者」というのがおもしろい。シュバイツァーや国境なき医師団だろうか。いや良順こそ、それである。この頃、浅草の部落民に医療を授けて、身分さえ与えようとした。彼にとって病者には貴賎も政治的、宗教的信条もなかった。まさに行動する医師であった。
さらに「仁者か強盗か」もおもしろい。仁とは人と人の間に入り、自省し、他者を思いやるという意味であり、強盗とは診療報酬を水増しする人である。そして凡人は〝病者の友〟というのが卓見である。
ぼくなりに多くの名医に会った経験から言えるのは、技や知見があるからこそ病者の友となれる。何もなければなれない。いや、技や知見があっても伝えられなければやはりなれない。
つまり仁とは医師の餡子である。技術や知見、思いやり、貴賎も金銭もない生きかた。善き医師の原動力のようなものだ。最後まで読んで、ようやくわかってきた。
我が読書中の膝の上に、うちの子が寝て…
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