あの日からずいぶん遠くに来たと思うだろうか。それともまだあの日の周りにいると思うだろうか。
あの日とは2011年3月11日、東日本大震災の日である。あの瞬間、花粉症に悩まされていたことと、揺れた時ギャラリーの倉庫にいたことを思い出す。棚から落ちて来る物を支えきれずに倉庫から出ると、展示物も揺れて落ちていた。廊下に出ると、上の階の引き戸がばたんばたんと自動ドアになった音が聞こえた。階段の手すりにつかまってcherryさんと顔を見合わせ、こりゃひどい…と言った。
当日首都圏は鉄道網が麻痺して帰宅もできないし、コンビニから食品はなくなるし、花粉症もひどい一日だった。だが今では「あの日があってよかった」と思える。
というと被災地の人には叱られる。あの日がなければ人は亡くならならず、家も無くならなかったと。申し訳ないが被災地にいなかったぼくには、あの日があったから自分のやるべきことが見えたし、それ以外のことを止められたという思いがある。
直後に被災地支援のイベントを開き、ぐるっとブレスレットワークショップも数年間毎月開いた。人生最良の出会いがあった。文の仕事でもビジネス分野のことを書くのを止めて、もっと深いものを書くきっかけを得た。何を大切にすべきかわかった気がした。成果(お金等)の大きさでは語れないが、自分なりに歩みだせた。
震災には心労があったが、日々「誰かを心配する」のは良いことでもある。
愛する人の体の具合や心模様を心配する、ブラック会社に勤める子供の燃え尽きを心配する、猫が吐いたり痩せたりするのを心配する。心配は負担だけれど、それが真剣なら、相手と心と心で響き合うことができる。亡くなった人びととも通じ合える。それは悲しみでもあるが喜びでもあろう。
震災は風化しつつあるけれど、あの日の周りを歩いている実感さえあればいい。3.11にそれを確認すればいい。「別のあの日」がやってくるその日まで…(^^;
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