ぼくに「人の視点に立った平易な読みやすい文」は書けるのだろうか。
文章は個性が現れる。個性が無い文章ほどつまらないものもない。そう思ってきたが、一方文章にもまたTPOがあり、個性を消した方がいい場合もある。個性が自然と消えてしまう場合もある。
「個性を消した方がいい文」とは、商品の使用方法やプレスリリース文である。対象とする読み手の誰もがわかりやすく、読んで正しく理解し、腹を立てないことである。究極は「伝わればいい」。ところが伝えるのはむつかしく、そういう文を書けることはひとつの才能である。
たとえば『バカの壁』というかつてのベストセラーは読みやすい文である。養老孟司氏の口述を編集者が文にしたという。読みやすいから売れたせいも多分にある。ただぼくにはあの本は「引っかかり」が少なくて退屈だった。「読みやす過ぎて」途中で読むのをやめた。
また「自然と個性が消える文」とは、たとえばお悔やみの言い回しである。「この度はご愁傷様でございます」「心よりお悔やみ申し上げます」と悲しい時は誰もが一様の表現をするものだ。それがあるべしと言われるし、ぼくもそう思う。だがこの時も一方で、「なんで死んじまったんだよ、お前!」と棺に向かって怒鳴って泣く人の方が心を打つし、良い文(言葉)だと思うのだ。
そう考えてゆくと、文に個性があるのは、単に人間性が幼いだけのような気もする。エゴを上手に手なずけて生きてきた人は、平易な文が書ける。エゴに突き動かされ、どうしようもない生きかたをしてきた人は、伝えるもどかしさと格闘するあまり、変な文(笑)になる。人に冷たい文や、人の視点に立てない文になる。
ぼくが「引っかかる文」の方が好きで、「感情的なイレギュラーな言葉」が性に合うのは、幼いからなのだ。だから書く文も伝わりにくい。だから売れない(笑)
途方に暮れてもしまうが、そうも人生長くない。もっと先人の文を読んで真似て書いて学ぼう。それでも消えないエゴのある文なら人に伝わるし、それこそ文芸であると思うので。
書けなくてごめんなさい…とピノ子も謝っています。
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