司馬遼太郎氏のある作品を読み出したら、その巻末の解説文(司馬遼太郎全集月報)に、司馬氏のこんな一文があった。
「こんなものを読まされる読者はたまったものではあるまいと思うようになった」
ごく断片を拾ったので、元の文とは違う意味にさえ取れるが、氏の言う意味はこんな感じだ。「話し言葉と書き言葉はちがう、話し言葉ではおもしろくても、書き言葉になると論理の飛躍は許されない(=理解されない)ので、おもしろくなくなる」というのだ。
例えば噺家の三遊亭円朝全集は読みにくい、円朝の落語がいくらおもしろくても文にするとダメだという。吉川英治も泉鏡花も読みにくい。それはなぜか。それは「耳はばか」で「目はうるさい」からだという。
確かに音読文と黙読文はちがう。
江戸までは、いや恐らく明治の中頃までは「文とは聞くもの」であり「声を出して読むもの」であった。それが「目で読む」ものになったのはいつからだろうか。新聞の普及からだろうか。教育勅語までだろうか(すなわち終戦まで)。旧仮名遣いが消えた頃だろうか。たぶん高度成長期以降だろうが、とりわけウエブ時代からはまったく声を出さなくなった。「声を出して読みたい日本語」という本(齋藤孝著)があるくらいだから。
そこで問題になるのが、「人の耳は許容量が大きく、目に対しては小さい」である。
ラジオの言い間違えには微笑んでも、ウエブニュースの誤字脱字の多さには閉口する。単語だけではない。原稿では、導入も、各章の終わり方も、漢字とひらがなのバランスも、エンディングも、すべて問われる。ゆめゆめ許容量は小さい。
原稿だけではない。電子メールも、SNSも、チャットも、LINEも、ゆめゆめ許容量は小さい。相手は読みながら「うるせー!」と耳をふさいでいるかもしれない。
「文はうるさくないように書かねばならない」と自戒した次第。
袋の中からも目は語る…-^^-
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