年の功と書くべきところ〝年の効用〟と書いちまった。それでも意味は伝わるような気がするが、ボケたなあ…(^^;
苦労した原稿がひと段落したので、ホイホイと町内会の催しに出掛けた。なんというか、芸事の見せっこ会みたいなものだ。観る人も演る人もほとんど年寄り。しかも95%まで素人芸で、たった一人だけ観るべきものがあったレベルである。だがまあそんなことはいい。そこには人生を楽しんでいる高齢者たちがいた。
どうしてあんなに素直に楽しめるのだろう。壇上にあがり、アがっているからとアハハハ…と笑い、失敗もしてやり直しもして、恥ずかしげもなくスタスタと降壇してゆく。年を取ると羞恥心がなくなるのであろうけれど。
ふと塩野七生氏がNHKのインタビューでこう語ったのを思い出した。
カエサルを書かないかと言われたけれど、30代で書けるような男ではない。
塩野七生氏が『ローマ人の物語』を刊行したのは1992年から2006年、55才から69才にかけてである。年齢を重ねないと書けないことがある。文の創作だけでなく、およそ芸事とはそういうものだろう。
では年を取るとどうして書けるのだろうか?
よく「年をとる」のは人間として「角が丸くなる」と言われる。怒り肩から撫で肩になるというやつだ。
だがぼくは逆に「角が出せる」のではないかとも思うのだ。今日の町内会でも、皆自分を素直に衒(てら)いなく出せていた。自分という存在を、許すのも許さないのも面倒になって、肯定しちまうかというように、素地で生きれるようになる。年をとるとはそんなことじゃないだろうか。
塩野氏は年をとれば「人の素地が見れる」と言っているのだ。素地で生きている人と生きていない人を見分けることができる。ぼくにもほんのりと実感がある。
しかし一番大切なのは「楽しんで書ける」ことだ。苦しい人の書いたものは読む人も苦しい。だから楽しくボケたい。年をとるのは悪いことばかりではない。
またオレを置いてけぼりにして…(と言っていました)
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